アール・ヌーヴォーとイスラム建築

 セセッション建築は二次元的である。ワグナーの壁面は平坦で、壁面はグラフィックス・デザインの壁紙のようになる。古典主義建築の伝統上ではこれは普通ではないように見える。円柱が林立するファサードは古代の神殿を理想とする、立体感のある彫刻的な発想だった。これはイスラム建築の二次元的な壁面デザインにやや近いと言えるだろう。そこでは壁面は平坦で大きな幾何学の輪郭を持ち、ぎっしりと幾何学文様によるモザイクが貼り込められる。

 もっとも、ルネサンス建築はファサード芸術とも言われるように、ファサード張りぼての二次元芸術という一面もある。アルベルティがその最たるもの。しかしパラディオになるとファサードの微細な奥行感がテーマとなる。ヴィラ・ロトンダは立体的だが、ヴィチェンツァのパラッツォ群は二次元的。しかしそれはレリーフのように微細な立体感を伴っている。イスラム建築ほどに完全な二次元性となならない。

 セセッションも含めて、ヨーロッパ規模のアール・ヌーヴォーは、古典主義の伝統を否定するように二次元デザインになだれ込む。アドルフ・ロースもそこに含まれる。アール・ヌーヴォーが開いたポスター芸術も関係している。もっとも、アール・ヌーヴォーは植物的な曲線を特徴とするというのが定番。そこが違うのか・・・、と思いきや、イスラム建築の壁面にはアラビア文字のカリグラフィーがあって、それはアール・ヌーヴォーの曲線を連想させる。なるほど、総合的な工芸作品と見ればアール・ヌーヴォーイスラム芸術は造形構造として近似している。

 P.ベーレンスのヴィーガント邸の内装で、古典主義的なデザインなのだが異様に平板なものがある。古典主義の立体感を消し、二次元化させたい意思が見て取れる。

 なぜモダニズムの始まりが二次元化だったのか。浮世絵のような二次元上の版画的抽象性が好まれたという時代相。しかし、それもなぜ。そこにイスラム芸術が関わっていなかったか。ただ、イスラムと特定することにあまり意味はないのかもしれない。イスラム建築は透明性の高い論理に従うのであり、単純明快なプラン、輪郭を特徴とし、そこに幾何学的な一貫性を見せた。余計な雑念を排除する精神性が、そのような独特の幾何学世界をもたらした。シトー派にも共通する禁欲的な清貧性の精神から生まれ出る発想。モダニズムはそのような意味で19世紀的な奢侈を否定する清貧性の上に立っていた。

 はるか地球の裏側から来るジャポニスムに頼るより、イスラム世界は近い。そこでイスラムと名指しされることはなくとも、その造形精神は浸透していただろう。そもそもルネサンスの科学精神にはアラビア科学からの大きな影響があったという。イスラム建築は南スペインに、またシチリアに見ることができたし、考古学者たちはオリエントに展開し、近東、エジプトのイスラム建築をも身近にさせていた。ヨーロッパの黄昏を超え出るのにイスラムの造形精神は足がかりとなることができたはずだ。

 アール・ヌーヴォーが始まるのにイスラムの造形精神がひとつの切っ掛けになったことは十分に考えうる。19世紀末期ヨーロッパは脱ヨーロッパ、そして世界普遍化を目指した。モダニズムは世界芸術として始まっていた。

 ただし、ここで言うイスラムの造形精神とは中世の、科学先進地だった時代のものである。権威化するキリスト教のもとに科学精神を失っていったヨーロッパを尻目に、当時のアラビアは近代化を先導していた。今、人々がイメージする、遅れたイスラム世界とは随分と異なる。

アラブ・ノルマン様式

 さまざまの経緯があって、マイケル・ハミルトン・モーガン『失われた歴史 ー イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』を読むこととなった。これは結構なカルチャーショック。

 ヨーロッパがルネサンスを開始するのは古代ギリシャ・ローマの文献を再発見したから、とはよく知られていること。しかし、そのある部分がアラビア語経由でラテン語化されていったことは、その筋の専門分野の人たちしか詳しくは知らない。中世、キリスト教が支配したヨーロッパは、イスラム教のアラビア科学に大きく遅れを取っていた。そのアラビア科学は古代ギリシャの科学、哲学を翻訳し、それを土台に独自に発展させていた。イスラム文化の最盛期にはユダヤ教徒キリスト教徒にも寛容であり、今日のイスラム原理主義、またキリスト教福音派原理主義などからイメージするような独善性はなかったようだ。

 モーガンは、中世アラビアにおける科学と合理主義の姿を具体的に掘り起こし、系譜を明かしながら、本来のイスラム文化をドキュメント小説風に読ませてくれる。2007年の出版であることからわかるように、9.11後の現代との対比をさせながら、現代人の大きな誤解を解こうとする。中世のイスラム文化は、今見られているような時代錯誤の宗教性偏重ではなく、当時においては世界先端の近代思想だったと言う。アラビア数字に知られるような数学、アルジブラはアラビア語起源、アルゴリズムもまたあるアラビア人の名が起源、そのほか、天文学、医学等々、近代科学の基礎はアラビア科学が開拓していて、それなくしては成立していたかどうか。

 なぜこの本を読んだかと言うと、シチリアのアラブ・ノルマン様式というものの成立した基盤が知りたかったから。「12世紀ルネサンス」と言われる当地での文化興隆はアラビア語文献を経由してギリシャ哲学をラテン語に翻訳したことに発するという。キリスト教下の中世からいち早く脱するような近代文化がそこに芽吹いていた。そのような12世紀にこの建築様式は、イタリアの中世様式に、ギリシャから来るビザンチン様式、アフリカから来るイスラム建築様式が混ざり、見事な折衷様式をなしていた。パレルモの宮殿、大聖堂、モンレアーレ大聖堂などがその傑作である。

 なぜそんな独特の様式が成立したのか。それはシチリアのノルマン王朝がなした宗教的な寛容政策だったという。しかしそれは寛容というよりは、アパシー、つまり無関心と言ったようが良く、あるいは超越していたと言った方がよいのかもしれない。北から来たノルマン人は独自の建築様式を持っていたが、それはいわば合理主義様式であり、装飾は少なく、のっぺらぼうな大壁面が目立ち、質実剛健な構造、躯体を特徴とする。そのノルマン人が、シリアあたりの教会堂形式を導入し、壁面をビザンチンのモザイクで覆い、イスラムの背高アーチとムカルナスで屋根と天井を形作る。まさに好いとこ取りの折衷様式である。一段高い位置から見下ろして、各様式の価値を査定し、組み合わせたような塩梅である。

 モーガンの説をもとにすると、シチリアを挟んで科学技術は南高北低、つまりアフリカの方が高く、ヨーロッパの方が低かった。一応、キリスト教のもとのノルマン王朝だが、より水準の高いイスラム建築から技術移転して何が悪い。イスラム教徒もシチリアでは活躍してもらわなくちゃあ、というわけだ。「寛容」とかいう甘い言葉では済まない。先進国から技術移転、文化移転するようなものだ。しかし、ローマ教皇庁は癇に障ったらしく、異教の文化を導入するのに苛立ったらしい。シチリアに拠点を置く神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世などは、何度も破門宣告を受けていた。この皇帝はまるで、そんなの関係ねえ、と馬鹿にしたようだが。キリスト教の方が原理主義的で、イスラム社会の方が寛容で視野が広かったようだ。モーガンもこの点を強調していて、この本の基調をなしている。

 本格的なルネサンスが始まる14世紀以降、脱宗教の感覚が高まるので、こういったキリスト教イスラム教の中世は乗り越えられのだが、とりあえずシチリアのアラブ・ノルマン様式というものの文化的な基盤構造がわかったような次第である。折衷主義、日本で言う折衷様なるものも、こういった目で解釈し直せば、単なる寄せ集めではなく、ある種の合理主義と言えそうだ。

 

いつ神が、そして神殿が?

 NHKスペシャル『人類誕生』第2回。ネアンデルタール人ホモ・サピエンスが接触し、遺伝子が継承されているという。世界のヒトの遺伝子には、ネアンデルタール人の遺伝子が2%強ほど入っていて、東アジア人にはやや多め。もちろん日本人の場合も、同程度。私にもだろうか?!しかし、ネアンデルタール人の姿形はゲルマン系に似ているように見えるのだが、これはヨーロッパ大陸の環境からくるものなのか?疑問は残る。

 それよりも面白いのが、ネアンデルタール人が家族単位で集団化し、20人前後だったのに対し、ホモ・サピエンスは家族を超えて集団化し、400人くらいにはなっていたという。家族を超えて結束するには、動物的な本能を超え、理性がより強く求められよう。集団化するには暗黙とは言え契約関係のようなものが必要。そういえば頭蓋骨の輪郭が違う。ネアンデルタール人の頭蓋骨は大きかったようだが、おデコが後退し、後頭部が後へと張り出している。対してホモ・サピエンスの頭蓋骨はややコンパクトになり、おデコが前に出ている。これは前頭葉が大きくなったということなのか。そうであれば前頭前野が発達したことになる。つまり、知恵が増え、論理的思考ができるようになってきたということか。ホモ・サピエンスは道具を発達させていくことができたという。

 もうひとつ面白いのは、壁画に下半身が人間で上半身ないし頭部がライオンといったようなものが描かれ始めていることだ。それは存在しないものを創造する能力がついたということ。それはシャーマンの姿だったとされ、宗教儀式が始まっていたという。超自然的なものを感じ始めているのだ。つまり、霊、神の観念が脳内に形成され始めたということか。死後の世界も想像され、埋葬者が飾り立てられたという。

 集団化がなされるのは共同幻想が始まり、それを共有することで集団はますます大きくなる。人間社会の始まりだ。神観念の共有が社会を形作る。そこから古代神殿の発生までにはまだ相当の時間が必要だろうが、形なき神が、社会をなんらかの実力で統帥する王の発生と神が重なる時、神の住まいとしての神殿という建築物が登場することになるのだろう。ただ神観念は多様なので、擬人化された神の場合の話に限定されるが。

 やはり初期の人間には神、そして神殿が必要になる時期があったのだろう。神は脳が産んだ仮想の観念だが、それは前頭前野の発達と関係していたのだろう。家族を越える社会の発生には前頭前野が必要であり、そしてそこに神殿というものが仮想世界から実世界へと導き出されたのだろう。

 現代の地球共同体の社会をまとめるには、この初期的な神、神殿に代わるものが必要だ。ガイア仮説、つまり地球こそ神。地球は実世界の物理的存在だから、より正しくは地球という神殿。地球の人間にとって未知の不可思議さ、超人的な何かに、人間は幻としての神を感じているということ。前頭前野の内側にだけ神観念が生まれるのでなく、前頭前野扁桃体を含む大脳辺縁系の不可思議な現象を把握しようとするために、どうしても必要となった神という観念、というように見れば、神観念は存在するというよりは志向されるということか。存在論でなく、現象学

 神殿は神に捧げられた家。しかし同時に、それは超人的な能力を持った神を閉じ込めておくために蔵でもあった。

 番組のオープニングはエルサレムの神殿の丘の光景。多様な宗教の聖地ということで。ダビデの都市の斜面を登った丘上に築かれた巨大過ぎる基壇とその中心のぽつんと置かれた神殿が見せる、ユダヤ人社会の都市景観が連想に浮かぶ。急峻な斜面に不規則に展開する市街に対し、丘上の見事に平坦で矩形の巨大な聖域。滑りそうになって肝を冷やした斜面を思い出す。なぜあんなに巨大な幾何学形態が必要だったのか。その基壇の足元で、神殿の不在化をユダヤ教徒がいまなお嘆きつづける。ホモ・サピエンスの始まりから続く宗教感覚は現代にまで続くのか。ホモ・サピエンスの集団化は一つの地球共同体への統合に向かうはずなので、それぞれの部族が築いた古代神殿の時代はとっくに卒業したはずなのだが。21世紀はガイア信仰でひとつにまとまることで、平和な世界となるのではないのか。

壁の情報建築論

 フェイク合戦を情報建築論として見てみよう。

 各種メディアはトランプのフェイク情報を非難する。トランプは各種メディアの発する不利な情報をすべてフェイク・ニュースだとして退ける。まるで城壁を挟んで矢が飛び交っているかのように見える。そう、ここに壁が立ちはだかっているのだ。いやむしろ情報の壁を築くことがトランプの思惑だ。メキシコ国境の見せるための壁だけでなく、不可視の壁も築こうとしているのだ。

 FTPを解体するということは透明化した構造をなくすること。壁を築いてやり合うのだ。保護貿易。保護するには壁が必要。

 大統領官邸を壁で閉じ、国境を壁で閉じ、多重の壁で、見通しの良い透明な構造を分断すること、それがトランプの基本思想。支配体制の核は親族で固めて壁、その周りを軍人系で固めて壁。白人支配層と移民を分断する見えない壁。

 民主主義はフラットな社会を目指す。個々人に権利と責任を担わせつつ、平等化。アメリカ合州国とは近代民主主義の理想社会だったはず。そこに多重化した壁、そしてヒエラルキー。これは合州国の終わりか。

 古代ギリシャの、広く地中海を覆った都市国家群の時代には、民主制と僭主制が繰り返していたようだ。僭主、つまり力をもとに支配者になる者。権謀術数、謀略を使って支配権を広げる者。嘘は謀略の手立て。対話でなく軍事力。確かに僭主は総合力がなければなれない。そして独裁者になると弾圧や奸計で対抗者を落としていく。周辺に戦争を仕掛け、弱小市民を兵士に仕立て、多くの人々を不幸にすることで自らの地位をさらに高める。忖度も助長する。僭主に時代には確かに版図を広げることもあり、僭主の欲望は華やかな宮殿を築き、残されもする。歴史学はややもするとモニュメントを称えることにもなる。そうか、トランプは僭主。そして意図的に僭主化を図っている。

 合州国が王国のように変貌するのか。そして華やかな宮殿が建築されることになるのか。それは、見えるものか見えないものかは不明だが、壁で囲まれるのだろう。かつて僭主が城を築いたように。見えない壁とは情報の壁。透明であるべき情報が遮断される。

 情報の壁は北朝鮮を代表として、中国にも、また世界の多くの独裁国家にも。シリアをめぐるロシア側情報と欧米側情報の隔たりには、戸惑わされる。ロシアも壁。自由と民主主義を世界に流布させるはずだった合州国が、今や壁作りに精を出す。

 中世都市の市壁、近世都市の稜堡式城塞。近代国家は国境という壁、税関という門。かつてのベルリンの壁、いまやパレスティナの壁。壁と門の建築学は古代の壮麗な都市門から、現代の検問所まで、系譜が辿れる。そして情報の壁とはインターネット遮断の電子テクノロジー。ファイア・ウォールとは防火壁からパソコンの検疫プログラムへ。

 アーキテクチャーは建築学から情報学へ。ならば、パソコンの検疫プログラムにも美学は成立しているのだろうか。美しいプログラム、快感を催すプログラムなどあるのか。目を圧倒する城壁のように、心を萎えさせるようなプログラムがあったりするのか。扁桃体が恐怖を感じるものが。

 スノーデンは壁を崩そうとした。現代民主主義のための英雄。体制側からすればテロリスト。

 透明な建築か、不可視の建築か。マジックミラーは外部から不可視。可視・不可視の建築。都市空間には可視・不可視の装置が錯綜する。防犯カメラは見られていないようで、見られている。監視する側の戦略。壁に代わる電子機器。都市空間はプチ戦争の現場。マスク、化粧、衣装で変装する人々。化粧道具から大手メディアまで、壁の情報建築論が体系化して整理できそうだ。

 

 

 

21世紀の神と神殿

 いったいいつから人間は神を意識し始めたのか。そしていつから神が消えたのか。

 生命体に脳が発生した時から、神のようなものが意識され始めたのではないか。生物は生存欲求がプログラム化されているが、環境にはそれを阻害する要素が満載されている。ガイア論的環境は生命体の存続を支えているが、異常気象などがそれを脅かす。愛すべきものも恐れるべきものも大自然にある。いわば生命体にとって外界のすべてが神。

 つまり、生物にとって超越的なものがすなわち神(に相当するもの)だった。もちろんまだ神という概念も言葉もない時代。

 神が概念となるのは、脳が進化し、大脳皮質が発達した後だったろう。ホモ・サピエンスが発生した頃には脳内に神のイデアが生まれていたろう。アーとかオーとか、原始的な発声の中に、神を意味する言葉が出現していたかもしれない。

 古代人は神々として特定し始める。エジプトの神殿には鳥やスカラベやら、複数の神々が図像化されて刻まれている。それらによって大自然は神々の空間と想定された。アクエンアテンは太陽を一神教としてそれらを統一しようとしたが、失敗し、多神教に戻る。神殿内の至聖所には舟が置かれ、人間界と神々の世界をつないだ。

 その後、ギリシャ、ローマは神々を擬人化し、多神教を一段階レベルアップした。神殿はその神の住まいとされた。人間界と神の世界は区別されるが擬人化を通してつなぎ合っていた。

 キリスト教イスラム教といった一神教では預言者の向こうに唯一者としての神がいるとされる。神ははっきりと概念化された。しかし形なきものである。愛すべき、あるいは恐れるべき超越的ななにかだったものが、ここでは抽象的な神となる。

 神の観念は人類以前から人類へ、現代へと続く、生存欲求や種保存欲求に対峙するものである。それは感覚的なものから概念的なものへと進化してきた。脳の発達過程に合わせて。

 ヴァグナーが神々の黄昏を言い、ニーチェが神の死を宣告したとはいえ、愛すべきかつ恐れるべき大自然は消えることなく存続している。神の観念は否定されようとしたが、実態として、神は人がつくった概念をすり抜けただけ。

 ルターらの宗教改革は中世キリスト教の体制を崩したが、ルターは教会体制を否定して聖書に戻っただけ。カルヴァンは日常生活の中にすでに神がいることを説いただけ。神はより抽象化して発見され直しただけ。ルネサンス文化は神が教会堂で聖職者に守られてでなく、人間の内側にすでにいることを示した。バシリカ式が否定され、集中式となったのは、儀式を通してしかでなく、大宇宙にいる神を直接的に接することができることを示そうとしたから。

 

 

 大宇宙の神は、啓蒙主義の18世紀に自然科学に直面する。自然の論理に神は内在することとなり、聖職者に科学者が取って代わる。科学はゆっくりとしか発達しないので、科学が解明できない部分では聖職者の役割が残るので、聖職者と宗教が消え去ることはなかったが、その効用範囲は次第に狭くなっていく。宗教と科学は対立するもののように見る向きもあるが、そうではなく、科学は宗教を追い込み続けるという構図。科学は神秘としての大自然、大宇宙を人間のロジックの書き換える作業だが、それが人工的である以上、無限に続く作業。その果てにあっても、神は生き残るもの。

 ただし、神を騙る、進化の系譜上に遅れている聖職者ビジネスマンたちのことはここでは論外。プラシーボ効果としての宗教が大半。現代の科学の時代には、無神論者こそむしろ神というものをよりよく理解している。

 現代にあっては、神は神殿にも、教会堂や寺院などにも居ないかもしれない。工場、オフィスビル、あるいは科学的分析を通した機能的な住宅にこそ、本来の神は宿っている。他方で科学の先端が追いかけるガイア生態系などに、古来から続く、愛すべきかつ恐れるべき神は居る。

 原子力発電所の巨大な建築物は、いわば現代の神殿。核燃料とはすなわち恐れるべき自然。それを電気を取り出すための物質としか見ていないことに間違いがあった。それは人間の技術を超越しており、太古の人類が神として、またそれ以前の動物たちも恐れた超越的な力。かつて人類が神の怒りと見たものを、今、私たちは炉心溶融に見ている。古代人が原子力発電所を見れば、神殿と捉えるはず。ある建築家が福島第一原発の4つの手に負えなくなった建屋を、4つの神社に見立てるデザインを提示していたが、これはひつとの卓見。

 震源のプレート境界、火山のマグマ溜まり、エフェメラルな台風など、それらもなお人間科学が手に負えない恐れるべき超越者。他方でガイア論の言う地球生命圏という愛すべき、あるいは縋るべき超越者。これらにも、古代神殿に相当する建築物、工作物を装備させ、現代の宗教(のような)施設とすべきところだろう。聖職者としての科学者を配置。もちろん科学万能と思い込まない、未知の神秘を頭の片隅の残す科学者を。神の進化過程を理解できる科学者を。

 ここで言う神殿はメタファーとして。現実には人間−環境系に無数のコンピューター・チップが分散配置され、地球生命圏がサイボーグ化した時代。地球が人間のすみかであると同時に、巨大な神。地球を畏怖しつつ、愛する。生態系を保全しつつ、脳化、身体化。21世紀とはそういう時代なのだ。生態系という掛け替えのない生成成果が愚かな人間によって消し去られないよう。

 

 

人間−環境系の脳化

 弱者こそ進化できる。とりわけ、脳の進化が起こる。

 男性社会では弱者である女性の方が脳の進化が起こっているのか。ただ、ずる賢くなっていくのであれば不幸なこと。より理性的な思考方法ができるように前頭前野が発達するのであれば、人類の文明は進む。北欧では議会の過半数を女性が占めているところがあるという。エコロジー、持続する生態系という意味でのそれは、女性の方が身体的にもわかっているから、特に今の時代には求められる。

 生態系の危機は、生態系が弱者になっていることを意味する。人工的なシステムが発達しすぎて、生態系が虐げられている。そうであれば、進化するのは生態系。生態系を保全することは、単なる現状保存ではなさそうだ。より進化する脳と弱者化した生態系が連携すること。それは人工物を有機的システムにして、生態系に合わせること。そのシステムはより進化したシステムであるはず。

 コンピューターがますます小型化することは、生態系に人工的な頭脳が分散的に細かく配置されること。生態系は生き抜かねばならない。人類の生存より生態系の持続の方がより大事。

 さて、そのような有機的システムとして都市・建築は改変されなければならない。これは地球社会の大課題。

 かつてラスキンは中世主義を通して近代人に人間的な感性の復権を唱えた。モリスは手仕事による居住空間再生を実践した。これらは百年後の現代的では生態系の保全再生に相当する。人間性の意味が一段階深くなった。ポスト・モダン期に始まる20世紀の中世主義、歴史主義、感性主義等々は、懐古趣味や復古運動、耽美主義に終わるのであれば未来はない。それを切掛にして新しい、進化した有機的システムの発見と創造につながらなければ、21世紀とならない。ペヴスナーの、アーツ・アンド・クラフツからバウハウスへというプロセスを再来させよう。ちなみにイギリスの復古主義者たちはこのプロセスを手仕事への冒涜として、愚かにも断罪する。

 人間の脳内での進化は時間がかかる。しかし人間−環境系という空間構造的なシステムは、極小化したコンピューター・チップによって、いわば環境頭脳を形作ることができ、進化させられる。強者たる人工的空間構造に対抗し、弱者である生態系の維持のためには必要なこと。

 障害者が義足を付けると同じように、いたんだ環境には補助装置としての建築物が役立つ。建築物はモニュメントである必要はない。ポスト・モダンの装飾ごっこ化は誤った道。進化論的に正しいポスト・モダンとは共生型の建築物。まずは生態系の現状を直視せよ。そしてその障害が何かを見い出せ。そして義足のように生態系の能力不足を代替せよ。

 脳内でもそのような思考をなす部分を活性化させよう。脳の使い方の問題。

 

人類誕生と人工物

  NHKスペシャル『人類誕生』がちょうど都市・建築進化論に刺激を与えてくれる。進化とは何なのか。

 人類が猿からさらに発達するのは、脳の発達こそキーターム。しかしそればかりではない。

 二足歩行が始まったこと。それは脳を高く保つこと。血の巡りが悪くなりそうだが、むしろ脳血管の発達を促したはずだ。キリンの脳の方が高い。しかしそこでは脳発達へのインセンティブはなかった。二足歩行はすでに脳発達へのインセンティブを伴っていたはず。ひ弱な肉体は獰猛なライオンなどに襲われたが、それから逃れ、また反撃するのに肉体的な発達ではなく、脳の発達、つまり知性の獲得へと進んだのだろうか。

 ひ弱な二足歩行者は両手が使える。自由な手は枯枝や石を掴めた。そしてそれを振り回せるように腕の筋肉や神経、関節が変形される。脳の発達はそれと連携し、相互作用が発達をさらに進める。道具使いに目は不可欠だから、首の回転も滑らかになる。ここで脳、手、目の三角がキーとなる。他の動物に対抗することのできる、知性、戦略的行動、可動性が人類にもたらされ、これがさらなる発達、深化を遂げ始める。

 なぜ、ホモ・サピエンスが体毛のない裸になったのか。それは長時間、持続して走ることが理由だったという。運動して熱を帯びる肉体は冷却しなければならないが、体毛がそれを阻害する。汗をかき、昇華熱が体温を下げるには、裸が有利だったとか。なるほど、体毛を失ない、肌が露出することは、一見、ひ弱になったように見えるが、そのようなメリットがあったのか。そこでは脚力が発達し、また直線的な二足での走行が可能なように、骨盤や下肢の発達が伴ったはず。しかし、それだけで体毛がなくなったというのは、まだ合点が行きにくい。頭毛、脇毛、陰毛だけが残ったのはなぜなのか。なにかさらに高度なロジックがあったのかもしれない。

 走っていない時、日陰にいる時、夜間などは寒くて不利ではないか。そこには暖を取る家が始まっていたのではないか。南アフリカの洞窟住居の話は番組の次回にありそうなので、その後の話題にしよう。

 ひ弱な二足歩行者は集団化して自衛し、また獲物獲得のために攻撃し始めた。アルディピテクス・ラミダスの時代には一夫一妻制が始まったという。他家族の共同生活は集団生活に向けて脳を発達させただろう。象などに見られるように、動物の集団生活、利他的行動はすでにある。人類の集団化、社会生活は前頭前野の知性の発達を促したか。手の発達は道具的理性を始めさせ、社会化は社会空間の形を構想させ始めたはずだ。シェルターとシェルター間の空間の形成へと進むのだろう。

 番組では、人類は偶然と逆転で進化してきたとしている。脳の発達についてはまだ話がない。私は、人体がひ弱になったからこそ、それをカバーするために脳の発達があったのだと思ってきた。そもそも、強者には進化が必要でない。弱者は絶滅するか、さもなくば進化を通して生き延びるかしかない。脳の発達は生き延びるための瀬戸際状況がもたらしたものだ。これは教訓としなければならない。現代社会においても強者は、進化した弱者によって克服される。民主主義とは弱者の社会進化の結果ではないか。王国、独裁政権は進化の上では古い。

 人類が裸になったのには、持続的走行という積極的な目的があったからというより、突然変異で弱体化したのではないかという説を捨てきれない。二足歩行は猿の集団の中で弱者が森から追い出されて地上に降りざるを得なかったから、という消極的な理由付けはできないのか。遡れば、強者の甲殻動物が地上を支配した時代に、表皮が弱くて無防備で、餌食にされていた脊椎動物が逆転して行ったのは、柔らかで変形しやすい身体が進化を進めることができる自由度を残していたからではなかったか。

 弱者たる人類は手と脳を発達させ、知性をもとに、大自然に対して手を加え、改変し始める。人工というものがそこに始まる。そしてひ弱な体を自然や外敵から守るために、居住空間を人工的につくることになる。家の始まり、そして集落、都市の始まりがある。今日の人工知能もまた、そこに始まった。artifact =人工物。

 枝切れが武器となり、割れた石が道具となることを覚えてから、知性は発達し始める。洞窟の隠された空間、家族生活のための木々で囲まれたスポット等に住居のイデアが始まる。集団生活を囲う集落空間というイデアを見出す。やがて道具的理性は住居を人工的に構築する技術を生み、集落や都市を形作る輪郭としての壁とその内部の空間における住居等の配置のロジックを形づくらせる。そこにイデアなるものが生まれてくる。少し先走りすぎたか。