カンデルの世紀転換期ウィーン論

 エリック・カンデルはノーベル医学・生理学賞受賞者。『カンデル神経科学』を覗いてみたが、神経学百科全書のような体裁で、専門的な論文集のようでもある。堅物の学者さんかと思いきや、『芸術・無意識・脳』は一転して美術史の書。脳科学者が分析する美術は新鮮だ。目配りはよく、ダマシオも、ゼキも、ラマチャンドランも適宜、引用される。総集編であろうとするのか。ただ、この種の本は同じネタが平気で使われるのが恒のようで、同じ画像が登場するのには少し落胆する。

 とは言え、世紀末から世紀初頭のウィーンでの精神構造がよくわかって面白い。脳科学者の視点は独特の洞察を提示してくれる。フロイトもリーグルも、芸術家と一体になって捌かれる。焦点はクリムト、シーレ、ココシュカ。写真機の登場に対抗した芸術家たちは抽象へと歩を進める。その抽象は脳の視覚的認知の構造にもとづくものだった。ゼキの論にもあったような、線、色への抽象。これにフロイト的な性的な本能が絡むところが注目の的となる。

 性衝動へと還元される、フロイトに共通する部分は、やや過剰でもあり、閉口する。視野狭窄にも感じる。ウィーン世紀末は確かにエロティックな世界が展開されるが、こればかりに還元すると、フロイトの偏向の二の舞いになりそうだ。ヴォリンガーやドヴォルシャックのような様式論へと展開するには、この偏向は消しておきたい。なぜこの時期のウィーンに独特の精神性が広がったのか。オーストリア宮廷文化の爛熟と落日が関係しているのか。退廃的であるところを逆手に取るような、独特の新しい動きだった。パラダイム転換はこのような出口なき爛熟の坩堝に発生するという教訓。

 本題に戻って、クリムトの平板性。遠近法など朝飯前のクリムトが、あえて遠近法を捨て、三次元から二次元へと強引に移行する。アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像が見事にその構造を見せる。アカデミー壁画で見せた三次元的な具象表現ほどではないが、顔は具象的で、特に目はリアル。直角に曲がる右手のあたりでパターン化が始まる。衣装は二次元になり、紋様が散りばめられつつ、あいまいに広がる。背景、というようりは側景は完全に二次元の工芸デザイン風となる。眼球の網膜は、中心に神経細胞が集中し、周辺に広がるにしたがってぼける。そのままがこの絵の構造となる。衣装や背景画写実的であれば、目はすべてを見なくてはならなくなって、困る。印象は一瞬のものであり、目、顔、手以外は、印象を脳に伝えるだけでよい。それなら金色を主とする図案で網膜全体を喜ばせればよい。絵画の方法が、科学に従うように転換された。様式上では、アカデミー絵画からセセッション的デザイン性への転換。

 シーレは謎深い。面よりも輪郭が目立つ。視覚野のV1、V2あたりで認識される線、輪郭がより強い。輪郭線が動きも孕んでいるので、V5も関わるのか。身体が孕むエネルギーのようなものが画面に引き出されてくる。世紀末的な退廃的深層心理の表現に座標が移行する。エロスからタナトスへ。日常性を脅かす危険さも感じられ、扁桃体も刺激するのは、表現主義への移行を示すのか。輪郭表現は日本のアニメにも通じるところがあってわかりやすい。

 ココシュカはもう一歩、表現主義へと踏み出している。輪郭はデフォルメされ、色彩は過剰となり、輝度のコントラストが刺激を生み出す。対象の写実性を離れ、印象派の受動的な内向性も超え、増幅された音波のようなものが脳の視覚構造を震わせる。動揺するのは扁桃体だけか、それとも全脳へ波及するのか。前頭野が麻痺し、抑圧されるるような感じもある。やがてウィーン精神派のココシュカは、ドイツ表現主義のココシュカへと移行するが、クリムトに始まるウィーンでの文脈で説かれるとココシュカの立ち位置がわかりやすい。

 カンデルが解き明かすウィーンは特殊な世界。宮廷文化が崩壊し、生の動物的人間が露出してくる時代。それはヨーロッパ規模ではどのような意味を持ったのか。対抗するように成長著しいベルリンで、すぐに表現主義が花開く。退廃ではなく希望に溢れて。大都市を避けてミュンヘン郊外で芽を吹く表現主義は、ベルリンの吸引力に引き込まれる。質実剛健プロイセン精神で堅かったベルリン文化は一気に転換する。社会経済現象だったベルリンが文化現象をまとい始める。ベルリンはウィーンの裏返しだったのか。カンデルの脳科学的分析は新しいベルリン論へとつなげられるか否か。