脳科学的な宗教建築史に向けて

 建築史を脳科学から解き明かせないか。少し、書籍を物色してきたが、なかなかこれというものに突き当たらない。予備的な考察をしておこう。

 古代に神殿が発生したのは、どのようにしてか。

 神殿には神像が収容される。屋根がかかった神殿では内部が暗く、またあまり広くないので、わずかの神官が入って儀式を行うだけだったろう。神の住まいと位置づけられたとは言え、逆に言えば、神を壁の中に閉じ込めたようなものでもある。モニュメントのように神像が立つ場合もあるので、わざわざ家の形にする必要もなかったのではないか。あえて家に閉じ込めた動機とはなんだったのか。

 そもそも神は脳が幻をこしらえたもの。いろんな説をもとにすると、人は扁桃体で覚えた不安を緩和するために、神を妄想し、側坐核が報酬を与えて快感をもたらすというころになりそうだ。古代社会では外なる神が人々を守ってくれて欲しかったのか。アポロ、ゼウス、天照大神、etc. 神の世界と人の世界は二重化されていた。見えてはならない神であれば、家の中にいてもよい。日本の神社には神像はなく、鏡があるだけで、また御神体とやらも暴いてみると石ころだったりするから、閉じた家の方が適切だったのか。石ころを崇めさせるという究極のマインド・コントロール

 いずれにせよ、神殿は窓のない倉庫の形式が転用されている。神殿が閉ざしてあれば神が不必要に暴れることはない。神は優しくもあれば、怒り狂うこともある。人間の力を超えているから、閉じ込めてあるほうが安心。神にも色々あるので一言では言えないが。

 キリスト教の教会堂は集会施設である。そもそも迫害されていた頃に地下空間に始まる。コンスタンティヌス帝が国教化した際に、市場バシリカの形式を転用した大規模な教会堂となり、中世にかけて発展する。いわば多数が集まれる大ホールが原型であり、教会堂の内側は神の国となる。天上の神は地上の教会堂にいる信者たちを俗世間から守る。もはや神は暴力的ではない。キリスト教の原理は隣人愛、つまり共同生活の平和を確保することとすれば、大ホールは共同体の親和性を確認する場所。宗教観が根本的に異なる。普段から神に祈り、そうすれば神が優しく守ってくれるという精神構造は、神殿のもとの古代社会とは異なる。神の愛は脳のどこで感じていたのか。側坐核は報酬、快感、嗜癖、恐怖に関わるというから、これもまた腹側被蓋野からのドーパミン放出に関わるという側坐核が関与するのか。嗜癖、つまり快感を覚えることがやめられないということは、神を捨てられない保守的な人たちの性向を指すのか。

 ルネサンスには人間は自立し、神は人体の奥に宿ることとなる。教会堂は存続するが、幾何学的な芸術作品。ミケランジェロがデザインした、明るく力強い、そして美しい建築が人々に幸福感を与える。神がかったミケランジェロの作品に、神を感じ取るのか。カルヴァン宗教改革は人々の職業(Beruf)さえ神の呼び声に応じることとなり、人間の世俗的活動までが肯定される。教会堂の円形のドームは神のつくった宇宙の代言者。アントロポモルフィズムの新人同形説が教会堂のプランに適用されもする。美を感じるのは脳のどこか。視覚野、聴覚野などが認知したものが、美として幸福感をもたらすのだろう。その先はやはり扁桃体側坐核の連携か。ここでは宗教は芸術に取って代わられたのか。