近世建築と脳

 近世の建築史は宮殿が中心となる。建築史の舞台は古代の神殿、中世の教会堂と続き、いずれも宗教建築の範疇にあるが、近世はその枠を超える。とはいっても、宮殿もまた宗教的世界観からの延長上に、新しい世界観の精神表現だったと見ておかなければならない、

 フィレンツェ中心部に建つメディチ家の館は、特に中庭に見るように、純粋な幾何学秩序を追求した成果である。ブルネレスキの教会堂設計方法にあった正方形を組み合わせる方法、またダビンチの集中式教会堂の円と正方形の幾何学は、人間の館へと注ぎ込む。幾何学と比例構成は空間を完全な秩序へともたらす。そこでは人文主義の知的な文化が反映し、前頭前野が関わる。美を感じるのはドーパミンのせいだとすれば、前頭前野から扁桃体側坐核へと脳波は流れるのだろう。

 ルネサンスの建築美は古代の様式を再編した古典主義の様式体系を土台にするから、アルベルティの建築書などの、古代神話解釈などの知的な文化に関わる。古典主義の様式はいわば言語学的な意味論と文法体系。古代の神への恐怖感や中世の神のもたらす幸福感はここでは無用となっている。

 神は地上にいる、またはある。円形、正方形、あるいはその明快な分割。いわば透明な空間秩序。円形広間、矩形広間があり、天上面は格子状に分割され、壁面は付柱が対称形に区画する。この秩序感に神が宿る。その秩序感は脳のどこが、どのように感知するのか。線は途切れてはならない。柱は上下を区切られるが、その垂直軸線は無限に延長されていると認知される。円形、正方形の空間の中心に立てば、世界あるいは宇宙空間はあらゆる方向に無限に広がるように感知される。線を認識する、中心を認識するのだが、視覚野の問題というよりは想像力、構築力。プラトンイデア的なものが脳内に仮想的に構築される。トップダウン型の脳内制御。そこには長期記憶が関与するだろう。ボトムアップ型での脳内の経験群が整理されて、あるイデア的なもの、単純で明快、そして純粋化されたものが無意識の中に生まれている。それを意識の投影させたものが、円形と正方形、その組み合わせ。

 天才はその純粋化と投影力を持つ人のこと。ダビンチの絵画に見る静謐な秩序。円形ドームを頂く、正方形プランの集中式教会堂。マンテーニャの自邸は正方形プランの中心が円形の中庭で刳り抜かれている。ウルビーノで描かれた理想都市図には中心に円堂、正方形と思われる広場。市街地の各建築物は比例分割される。この秩序感が、構想する脳のある部位を刺激し、その動作がドーパミン作動系かその他のどれかの報酬系を活性化させるのか。神は地上にあるとして。

 近世は、天才芸術家がつくる幾何学秩序を理想とする時代。家、都市の形にそれが表れる。幸福な空間が実現する。古代の運命を定める神も、中世の愛をもたらす神も、ここにはいない。天才という人の手で作られる、地上のパラダイス。人に神が宿る・・・と、錯覚する。しかし時代は進化した。

 イタリアで開拓されたそのような世界観は、ヨーロッパ全域に拡散しつつ、かなり変質する。ベルサイユ宮殿はその行きついた先であり、地上のパラダイスのひとつ。見事な中心を持つ、幾何学形態を組み合わせた対称形。無限に続くかと錯覚される幾何学庭園と眺望軸線。ただ、そこには天才ならぬ、自らを国家と一体化させた、全能を過信するひとりの王がいる。黙示録世界のカタストロフィーへと、帰らぬ道。そうでなくてもヨーロッパ全体では宮殿の純粋な幾何学形はくずれ、細々とした装飾に快感が引きずられる。

 日本の「城」と比較せよ。信長の安土城、その先端の八角形とされる櫓。秀吉は大坂城伏見城と、天守閣という名の塔屋建築。完全な幾何学ではないが、塔はだいたい平面図で見れば集中式建築に近い。初期ベルサイユ宮殿は四角い濠で囲まれた変形中庭型のプランを持つが、聚楽第も二条城も基本形は同じ。広島城も。日本にも近世の空間精神は共通したのだ。ポルトガル人がもたらした?もはや「城」ではなく、「宮殿」なのだ。近世日本人の脳も同様だったのか否か。

 安土桃山時代の茶室建築は、何をもって快感を生んだのか。利休の脳の使い方を分析してみたい。ゼキやカンデルの還元主義も使えるかもしれない。