ファサードの対称性

カンデルの脳科学的解釈によると、人の顔は対称であるほど、見る者に快感を与えるのだそうだ。ココシュカの絵画を画像操作をしながら説明される。対称な顔は生物としての健康さを示し、非対称は何らかの不具合が原因で起こっているとされる。ちなみに眼球から視覚野に届いた情報は、視覚連合野の顔や身体の認識に特化された側頭葉下部にある紡錘状回顔領域で解析されるという。上下が逆さまに描かれた顔は、顔と認識されないと言い、二重に顔を描いただまし絵の原理をなしている。

 ここでの関心は、建築物の顔であるファサードでも人の顔の認識と同じようなことが起こっていないかということだ。例えばゴシックの大聖堂ではファサードは他の壁面に比べて圧倒的に情報発信しており、まさに顔としての役割を果たしている。ルネサンスの教会堂ではファサードはまるで壁紙デザインのように幾何学と古典様式の装飾で覆われている。イタリアの都市ではファサードの石貼りまで至らずに煉瓦壁が露出した教会堂をよく見かけるが、目を引きつけるものがなく、素通りしてしまう。

 しばしばミサに訪れる教会堂の教区の信者たちはファサードをよく記憶していることだろう。側面や背面はほとんど構造物としてしか目に映らず、ファサードだけが視線を受け止める。基本的にファサードは対称である。ゴシック教会堂ではストラスブールのように、片方だけに尖塔があったり、シャルトルにように大小の尖塔が非対称をなしている場合もあるが、それは双塔式が途中で単塔式に方針転換がなされた結果である。対称性はより健全なものと知覚されるのかどうか。

 そもそも双塔式は、ザンクト・ガレン修道院プランに知られるように、ミヒャエルとガブリエルという二人の大天使が、軍神として教会堂の入り口を守る塔で表現されたことに始まる。ロマネスクの教会堂は双塔式が原則であり、ゴシックへと続く。そして後期ゴシックの時に単塔式が教会堂に上昇感のある統一感を与えるとされるようになって、方針転換が起こった。だからウルムの都市教会堂のように高さ150mという見事な単塔式の尖塔が登場し、ここでも対称性が保たれた。

 ファサードが左右対称であれば、確かに目に心地よく、安定感がある。ゴシック様式では詳細な装飾が施されるが、その対称をなす配置は心地よい。そのために左右に同じものを製作しなければならないという、一見無駄なことが必要となるデメリットはあるが。ルネサンスになるとファサードに塔がなく、平たい壁面が幾何学的にデザインされて、対称性をなす。バロックの教会堂で双塔式が復活するが、そこで対称性はより厳格になる。

 顔を見る時、もしも片目にものもらいがあったりすると哀れに思う。丹下左膳は片手でもあるし、いつも哀愁を漂わせるが、守りたくなるという別の愛情をもよおさせる。その際に人は左右を見比べており、対称であれば健全という印象を持たせてくれる。ストラスブールやシャルトルは片方の塔の壮大さに目を奪われるが、どうして同じものがないのかという感情を引き起こすのは事実だ。

 ただ、そもそも非対称好きのイギリスなどは、別の非対称の美学を確立させているからここでは外して考えなければならない。そこではそもそもファサードというものがひ弱になる。