ブリューゲル一族の脳内を覗く

 ブリューゲル一族の絵には多数の庶民が登場する。ピーテル・ブリューゲル(父=一世)、ピーテル・ブリューゲル(子=二世)、ヤン・ブリューゲル(一世)等々。16世紀初期にイタリアに旅した父は、当地のルネサンス絵画の誇らかな手法からの影響はほとんど見せず、独自の誇らかでない手法を続けた。どうしてこうも違うのか。フィレンツェ等に比べてもひけを取らないアントワープブリュッセル等、経済発展の拠点だった町にあっても、イタリア・ルネサンスの華やかさは目標にならなかったのか。ヒエロニムス・ボスに始まる後期ゴシックの延長上に、庶民生活的リアリズムへ。それは人文主義プラトン的なものを理解できない能力の低さだったのか、それとも何かの理由があったのか。

 ネオ・プラトニズムの比例美、色彩、リアリズムは引き継がれない。イタリアではマニエリスムが意図してネオ・プラトニズムの完全性を否定し、破壊した。継承されたルネサンス文化から、いわば魂が抜かれ、手法の時代へと転換する。意図的であるかないかにかかわらず、批判的な視点へと移行した。

 様々の時代背景が説かれていて、北部ヨーロッパを席巻した宗教改革も関わる。脳の中で起こっていたことが気になる。ネオ・プラトニズムは天上の完全な幾何学秩序を見ることでドーパミンを放出させた。こちらでは天上のことは忘れられ、地上の日常生活しか目に入っておらず、視線は水平である。イタリアでゴシックの垂直性を否定してルネサンスの水平性へという転換があったわけだが、こちらではそのような転換ということもないままに、視線の水平性が当たり前である。

 東京都美術館の企画展でピーテル・ブリューゲル(子)の『鳥罠』を見た。高台から見た集落風景の彼方は水平の地平線が見え、アントワープかと思われる都市がうっすらの描かれる。集落の間の自然な川には氷が張り、大人も子供も氷上で遊ぶ穏やかな庶民生活風景。片隅に描かれた鳥を捕獲するために仕掛けが題名となっており、突然に悲劇に陥ることに気づかない鳥たちが、突然割れて溺れるかもしれない人々のメタファーとなっているのだという。そのようなやや無理な設定はどうでもよく、ここでは普通の人々が暮らす光景が見る者の目に親しみやすく映っていただろうことの方が大事だ。

 当時、複写はさかんになされ、この絵も多数の複写作品があるという。同画家のものが国立西洋美術館にもひとつあるようで、Web上のデジタル画像で見比べてみて、枝先の描写までほぼ一致するのには驚かされた。感動的な要素はないので複写対象になったことがあまり信じられない。しかし当時の人々は何かに心惹かれたのだろう。購入したのは貴族か都市の有力商人たちだったろうか。いわば田舎風景にもうひとつのユートピアを感じていた富裕者たちがいたのだろう。虚飾に倦んだ人々の逆説的ユートピア。プラトニズムの逆説。仮染めの都市文化からの脱出を憧れる、心の片隅のアジール。そう、田舎らしさ、ナイーブさ、無欲さこそ人間的に見えてしまう心の隙間。サブカルチャー的なもの。

 同じ企画展で見たヤン・ブリューゲル(一世)の『水浴する人たちのいる川の風景』は、『鳥罠』と同じ光景を、夏の風景として描いたもの。細部こそ異なるが、教会堂、家並み、樹木の位置と形状、そして全体の構図まではほぼ同一。鳥罠は見えず、教訓的な胡散臭さはないようだ。やはり田舎の風景こそがテーマだったのか。もちろん夏の風景なので樹木は葉で覆われ、緑が基調。川では裸の人々が泳いで遊ぶ。二つの絵画を並べて展示してあれば、大地の生命感が伝わる。

 今日的に言えば、エコ感覚。人工的なイタリア・ルネサンスのプラトニズムに対する、有機的なネーデルランドルネサンス。後期ゴシックの有機的神秘主義の延長上でのエコ感覚。もちろんもはや中世ではなく、宗教的なバイアスは消え、人間的という意味ではもう一つのルネサンス

 ラテン的なものに対するゲルマン的なもの。有機的なものが埋め込まれた神秘主義が継承される。描かれるのではなく隠れたまま侵入する。画家の意識には上らないままにキャンバスに侵入する。画家の手は無意識のうちに操られている。誰かに操られるのでなく、無意識の自分に操られる。脳の中の陳述記憶が考えながら描いているはずなのに、非陳述記憶が黒子となって操っている。陳述記憶にある比例や色彩のネオ・プラトニズムは、まるでテロリズミのように非陳述記憶によって闇のうちに崩される。

 ピクチュアレスクな風景とはいえ、ここではいわばハレ的な美はなく、ケ的な美が展開される。心は浮き立つわけではなく、ただ落ち着くだけ。故郷に帰ったような安堵感、解放感。態とらしくない風景。本音の生き様。美味なものを味わうよりも命をつないでくれるものを食べるような感覚。癒し系のセロトニンが関わるのか。画家はルーティンワーク化した手業を小脳に記憶しており、無意識のうちに絵にする。これも一種の様式論の対象。