神経科学からの装飾論

 ニューロンを伝い、シナプスを渡るという脳内の電気信号。その電気的な刺激は傍らから様々の情報を得て強化されるという。それを修飾とも言うらしい。ドーパミンセロトニンノルアドレナリン等の神経伝達物質が神経修飾物質とも呼ばれている。自然科学の領域で使われる修飾という文学的な言葉から、ふと考えた。普段から使っている建築装飾の装飾観が震撼した。見栄えの悪いものを覆い隠し、快感をもたらすものとしての装飾でなく、伝えるべき中心的ものを強化するものが装飾なのか。

 『装飾と罪』でA.ロースは装飾を断罪したが、その際の装飾は19世紀歴史主義の様式化した装飾手法だった。そこでは装飾は本来の建築物を隠す、厚化粧のようなものだった。彼はいわゆる「ロースハウス」の商店建築で、そのような古典主義的な装飾文法がバロック化、ロココ化した、19世紀的な壁面装飾を剥ぎ取って見せ、隠されていた本来の建築とは何かを露出させた。しかし、彼はドリス式の円柱は残した。それもまた装飾であろうとも思われるのだが、彼は虚飾と意味ある本来の装飾を分けたのだった。

 脳科学における神経伝達の際の修飾という考え方に照らしてみて、ドリス式の円柱は必要な装飾物だったことになるだろう。イオニア式、コリント式はそうではなかったのか。古代ギリシャにおいて、装飾の始まりだったドリス式は、本来の建築物のあり方から生まれたものだったことになる。木造建築をモデルにした石造彫刻として始まった神殿建築では、木造建築の部材の組立がそのまま石造彫刻となった。エンタシスのある膨らんだ円柱、エキノス、アバクスという二枚の板を重ねた柱頭、これらの単純な立体群は木製部材を連想させる。そもそも石造建築は壁のみでの構造が合理的であり、柱は無用なはずである。あえて円柱を並べた事自体がすでに装飾行為だった。柱を彫刻することは重要な意味を伝えることだった。ロースはそのことを忘れなかったのだろう。

 そういった意味ある装飾が、ただ目の快楽だけのために用いられるようになったところに、装飾の堕落が始まった。伝達すべき刺激を強化するのでなく、伝達すべきものがないのに勝手に貼り付けられ、躯体から分離独立して自立的に発展、あるいは暴走する。鑑賞者の立場からはそれもまたよしとすべきものだが、対象者は疎外され、むしろ虐げられていった。そこに革命が必要と考えたのがロースだった。

 建築様式はつねにそのような誕生から没落までの経過をたどる。つねに、というのはそこに何らかの法則性があるからであり、没落を悪だとも言い切れない。様式の進化はそのようにして進み、あるパラダイムが一サイクルを終え、次のパラダイムに転換される。

 薬物患者ではドーパミンの放出が自己目的化するようだ。本来の電気刺激を強化するための装飾として快感をもたらす神経伝達物質ドーパミン。その代替薬物が、本来の電気刺激とは関わりなく快感をもたらしてしまう。それに依存すると底なしの暴走。確かに醜いものを隠す化粧にもそれなりの意義はあり、否定すべきものではない。身体的な痛みを緩和するために麻酔薬物が必要な時があり、そこにある医学領域が成立している。同様の緩和剤としての装飾が自立した道具となり、それが独自の成長をとげていくことを否定するものではない。しかしそれが暴走するまでになったりすることがあるならば、自己制御機構が必要である。

 はたして、現代の建築装飾はどのような状況にあるのか。モダニズムの歴史的経過においては、機能主義の非装飾的な建築形態としてのインターナショナル・スタイルは、やがてアールデコの装飾を纏うようになり、建築躯体自身が心理表現媒体となるレイトモダンのスタイルを経て、さらに装飾性が躯体から分離独立するポスト・モダンのスタイルに移行する。それ以後、今日まで、装飾はいわば暴走段階に入った。鑑賞者の側からすれば、それは暴走ではなく華麗な発展であり、文化ではあるのだが。

 こう見れば、神経科学からみた装飾論は使えそうだ。まだまだ細かく分析できそうであり、20世紀における建築装飾のメタモルフォーゼを整理し直すことにもなりそうであう。装飾の観点からのモダニズム論。通俗的モダニズムの見落としてきたものが見えてきそうだ。