フラハティによる創造性談義から

 創造性というものが脳内のどこに発しているのか。脳科学もまだ解明できていないようだ。アリス・W・フラハティの『書きたがる脳ー言語と創造性の科学』というタイトルに惹かれ、読んでみた。何だか、小説を読んでいるような面白さがあった。自らの出産に伴う不運がもたらした鬱、ライターズ・ブロックという鬱からハイパーグラフィアという書き出して止まらない躁への転換など。神経科医師の科学的説明を期待していたが、この症状のせいか、周辺の話題が面白く展開されて、本質に明快に迫ってくれない。

 何とか収穫と言えるものは、文学的な創造は側頭葉の障害からわかるものがあるということ。もっともこの側頭葉というのは内側側頭葉を含むというものであり、海馬、扁桃体もそのうちに入っていた。皮質に対する辺縁系。つまり、記憶と情動が関わっていた。文学だから言葉の記憶は当然、やはり扁桃体がキーワード。ただ情動の発生場所という扁桃体も、まだまだ謎があって情動以上の処理を行っているという話もどこかで読んだ。

 特に怒りの発生場所と言われてきた扁桃体が、むしろ視床下部に発する怒りを制御するのが扁桃体であり、他の情報を含めて整理する司令塔のような役割を担っているとも言う。文学作品という高度に知的な言語の構築物、論理的でかつ美しいものの、感情的な部分は扁桃体が操作しているようだ。単純に還元主義的に扁桃体=怒りとしてしまってはならないようだ。科学だから取りあえず還元主義に頼らないと、つまり「分析」しないと物事は進まないが、そこで終わってしまえば科学者の石頭と言われてしまう。

 フラハティは暗喩に着目している。「病としての暗喩」。暗喩にはイメージの跳び越えが必要。暗喩群の宇宙は壮大だ。詩神(ミューズ)はどこにいるのか。創造的インスピレーションは宗教的インスピレーションと共通するという。インスピレーションはそもそもインスパイア、息に関わるもの。リビドーよりも息。そして気。(そうか、村上春樹のリビドー偏愛。気の創造性を忘れているか。)

 美とは何なのか。ミューズはどこにいるのか。ドーパミンが放出されるまでに何が起こらなければならないのか。記憶された言語がブローカ野で構成され、ウェルニケ野で受容された、というだけでは単なるデータ処理に過ぎず、美の感動は起こらない。脱線が必要。暗喩はそこで、アハッ効果を起こすのか。

 

 さて建築論へ。建築にはリビドーよりも気か。ギーディオンの『永遠の現在=美術の起源』はリビドー的なものを論じていたが。モニュメントの始まりには確かにリビドーが関わるか。それはさておき、ここでは気を考えよう。メディチ家礼拝堂をデザインしていて、ミケランジェロに美神(ミューズ)が降りてきた時、インスピレーションが発生した時というのはどういう状況か。まずは時代を席捲してきた、プラトン的な、正方形に内接する円が、幾何学的なドーム形を与え、ミケランジェロはそれを感じた。それは人間界と天上をつなぐ静止。人間界はもと息が通う。「昼」と「夜」、「夕暮」と「曙」の彫刻は時空をエネルギーを込められて揺れ動く。大きな息が聞こえてくるようだ。しかし喜怒哀楽は調整されている。扁桃体の感情制御機能か。扁桃体の働きなしには起こらなかった。

 丹下健三はダビンチの理知よりもミケランジェロの情動に目を向けた。アポロンよりもディオニュソスアポロン的でもあるル・コルビュジエに、丹下はミケランジェロ性を見出した。創造性はどこに発したのか。

 メディチ礼拝堂では、「昼」と「夜」、「夕暮」と「曙」はメディチ家の両人の冷静な構えを支え、天上へとつながる。揺れ動く気は、壁面の建築装飾に伝わり、比例構成を震撼させて破格を引き出させた。オーダーを構成する各種エレメントが拘束を解かれたように、異様に力強く迫ってくる。この気はどこから来たのか。ミケランジェロ扁桃体に何が起こっていたのか。両英雄に対する畏敬、ルネサンス的な人間に内在する神の洞察、それらが彼の扁桃体に届いたのか。それが彫刻、建築、空間へと変換された。これがフラハティの言う暗喩なのか。確かに何の関わりもなかった英雄への感傷と石の造形。

 その時のミケランジェロが受けたインスピレーションとは?何もない空(くう)に出現した幻影。それは脳に欠陥を負った患者に現れる幻視と、機構上はそれほど変わらないのだろう。夢を見る人間だからの芸術の誕生だったか。まだまだ神秘は解き明かせそうにない。