形ある作品より生成作業に真実が見える

 なぜ様式は変遷するのか。優れた様式が完成すれば、それを使い続ければよいではないか。せっかくの盛期ルネサンスの高みもあっというもないマニエリスムに喰まれて落ちていく。無駄な道行きなのか。

 人間は完璧な解答にも満足しない、矛盾に満ちた生命体。揺らぎがつねに支配する。物質なのか波動なのか。物質でもあり波動でもある。完成した形も実は揺らぎ続けている。落ち着くことはない。波乗りのように波をキャチしつつ安定を図る。

 完成した美しい形に満足するな。その形に満足しない生命的な揺らぎが、すでにその形を脅かしている。それは人間的なあり方。それを動かしているのは生命の神秘。進化し続ける生命体の業のようなもの。仏教か?ゆく川の流れは元の水にあらず、か?

 デザイン作品というものは、ある時点で時間が止まった形。進化の一里塚。批判理論が有効か。理性がもたらした明快なテーゼはすでに神話化している。神話は硬直した形であり、神話が独占するとファシズム。人類進化の目標はそこにはない。硬直したファシズム建築の神話的な形態は進化を阻害する。ただ、ファシズムの支配者的欲望に駆られる俗物政治家が多いのは確かであり、たえず批判者が必要。全人類による地球規模の民主主義は人類の究極の目標。本当の解脱。

 ル・コルビュジエは新しい神話をつくることで近代社会のデザインに貢献した。だが新しい神話が支配者然とふるまうことは進化の断絶を意味する。神殿は古代社会には意味を持ったが、近代では過去の英雄的モニュメントにすぎない。モダニズム建築は20世紀に意味を持ったが、やはり過去のモニュメント。そして文化財保護、世界遺産の対象。その世界遺産に憧れ続け、その上澄みに乗っかるだけのようでは、今も未来も見えてこない。もう21世紀に深く入り込んでおり、世界の構造は大きく変わった。問を忘れた批評家には未来はない。

 21世紀を見るのに、21世紀の新しい見方が必要。方法論。それは過去になかったものなのだが、過去があったから生まれでたもの。20世紀もまた、その過去があったからこそ、その時代の新しさがあった。波乗りに例えれば、複雑な波頭、その下のアモルフな大洋の上で、水平に安定したものがモダニズムの建築形態。波頭で安定するばかりでなく、波の動きに対応する有機的な動きも必要。メンデルゾーンのアインシュタイン塔はその有機的な動きを形象化。ヘーリンクのように、あるいはタンゲリーのように、安定形に拘らない有機的造形もあった。波乗りの大部分は、波の発生、成長を見出す、もどかしいパドリング。結果として形となった作品は、本当のデザイン・プロセスを隠蔽してしまう。消費者はそれでよいが、生成側に立つならば、本来の生命現象ともいうべき複雑な準備作業にこそ目を向けなければならない。いわばブレヒト的に、裏側を見せよ。

 固まってしまった形は、生命感を排除してしまう。フラクタル幾何学は硬直化だけが幾何学ではないことを教えた。アモルフ、つまり形なき存在への認識があってこそ、啓蒙の弁証法が成り立つ。デザインはつねに啓蒙の弁証法の過程にある。明快な形、零度のエクリチュールを提示するのがデザイナーの役割だが、作品化のすぐ後にはその解体がなされる運命にある。生きた人間の行為だからこその必然。奢る芸術家に未来はない。進化し続ける人間文化に追い抜かれていく。古典は永遠だが、古典主義は断続的に起こる。