クオリア論からピクチュアレスクへ

 茂木健一郎は、山寺の五大堂から眺めた風景を前にして、並列する様々の「クオリア」の存在に気がつき、そのようなアウェアネスにあり方を「メタ認知」したのだと言う。そのことがいわばキーワードとなり、著書『脳内現象』が書かれているが、この書はまるでカントか誰かの哲学書のように、人間の認知のあり方を論理的に構築して説く。他に、より学術的にクオリアについて論じた著書もあるようなので早計はできないが、もう一歩、クオリアというものが確信しにくい。

 客体と主体分けて論じられるのが従来の哲学だったものが、現象学によって間主体といった舞台が提示されて新しい視野が生まれたが、このクオリアはその間主体の世界でのことなのか。赤、緑といった後頭葉の視覚野で起こる感覚的クオリア、他方で前頭前野の働きで目をつぶっていても生起する色彩イメージという志向的クオリア。志向性という概念は現象学のキーワードだ。茂木は哲学者なのか、脳科学者なのか。より脳科学的な説明が欲しかったが、この書では哲学的な書き方で終わっていて、メルロ・ポンティを思い出した。

 ともあれ、クオリア論に乗っかってみよう。

 風景を見るときには多様なクオリアが複合しあっている様が確認された。視覚野で生起する感覚的クオリアに誘導され、風景画家は前頭前野で志向的クオリアを生起させ、キャンバスに絵の具で再現する。それは写真ではないので機械的な再現ではなく、画家の様々の記憶や価値観と調整されてあるので、デフォルメが起こっている。風景画は画家の芸術家としての資質を通して再構成された、リアルらしさを伴う再現であり、鑑賞者が元の風景を見てみても同じ感動はないかもしれない。画家が実風景から視覚野、前頭前野を経て作成した風景像を、鑑賞者はキャンバスから視覚野、前頭前野を経て同じような作業を繰り返す。鑑賞者に同調する能力が足りなければ、優れた美を伴う風景画も意味を成さないかもしれない。幼児には大人の絵画も単なる色彩遊びにしか見えないこともある。もっともゴッホピカソの絵画は擦れた大人よりも幼児に共感されるという逆転現象もある。

 風景の再構成ということはピクチュアレスクの造園美学の基本である。日本的に言えば数寄屋庭園。さらには数寄屋そのもの、つまり茶室。極小空間に展開されるのは志向的クオリア群ということになるのか。舞台床となる畳の配置構成、書割となる壁面の構成。窓、その配置、形態、素材、光と陰影。床の演出。天井の構成。その組み方、変化。そしてそこで展開される作法。時系列の儀式的プログラム。茶室のデザイナーは志向的クオリアを散りばめ、構成、演出する。客人はそこで美を、あるいは純化された空間のエッセンスを看取する。

 美には離散的な美と集中的な美がある。ここでは離散的な美。美しい風景を見るときと同じような脳内現象がそこに起こっている。θ波ドーパミンか、あるいは別の脳内物質か。

 西洋的なarchitecturaの美学は集中的な構成の方に重点が置かれてきたが、離散的なものもある。古代ローマハドリアヌスのヴィラに始まり、イギリス式庭園、シンケルの宮廷庭師の家、ライトの落水荘まで連綿と。茶室の構成はリートフェルトシュレーダー邸に転換され、世界化された。ピクチュアレスク=数寄屋の手法はクオリア論をもとに論じ直されてよいのかもしれない。ピクチュアレスクの概念をイギリス式庭園に限定する教科書的な学者にはわからない世界。クオリア論を用いれば説得力が出るかもしれない。

 さて、一方で茂木の主張はホムンクルス論の再構成。メタ認知ができるのは、私というホムンクルスがいるということらしい。どうしても二重人格的な色合いが出てしまうので、まだ十分に整理できていないようだ。哲学的な説明でなく、脳科学的な説明が欲しい。多様なクオリアを統括しているひとつの私。なぜ意識はひとつになるのか。進化の過程で、ひとつの意識というものがどのように生まれてきたのか。生命誕生の時からひとつだったはず。そうでなければ個体は生き続けられない。これはなお当分解き明かせない難問。ここではどうでもよいこと。しかし、集中的な美は同様に、統一的な美をテーマとしており、通底する問題もありそうだ。ルネサンス建築のファサードはどうして一貫した統一性を希求したのか。ピクチュアレスクでは離散的でよかったが、そこには統一性を崩そうとする衝動から来ている一面もあり、統一性というものがいわば敵として意識されていた。ややこしくなりそうなので、ここではこの問題は置いておこう。