人類誕生と人工物

  NHKスペシャル『人類誕生』がちょうど都市・建築進化論に刺激を与えてくれる。進化とは何なのか。

 人類が猿からさらに発達するのは、脳の発達こそキーターム。しかしそればかりではない。

 二足歩行が始まったこと。それは脳を高く保つこと。血の巡りが悪くなりそうだが、むしろ脳血管の発達を促したはずだ。キリンの脳の方が高い。しかしそこでは脳発達へのインセンティブはなかった。二足歩行はすでに脳発達へのインセンティブを伴っていたはず。ひ弱な肉体は獰猛なライオンなどに襲われたが、それから逃れ、また反撃するのに肉体的な発達ではなく、脳の発達、つまり知性の獲得へと進んだのだろうか。

 ひ弱な二足歩行者は両手が使える。自由な手は枯枝や石を掴めた。そしてそれを振り回せるように腕の筋肉や神経、関節が変形される。脳の発達はそれと連携し、相互作用が発達をさらに進める。道具使いに目は不可欠だから、首の回転も滑らかになる。ここで脳、手、目の三角がキーとなる。他の動物に対抗することのできる、知性、戦略的行動、可動性が人類にもたらされ、これがさらなる発達、深化を遂げ始める。

 なぜ、ホモ・サピエンスが体毛のない裸になったのか。それは長時間、持続して走ることが理由だったという。運動して熱を帯びる肉体は冷却しなければならないが、体毛がそれを阻害する。汗をかき、昇華熱が体温を下げるには、裸が有利だったとか。なるほど、体毛を失ない、肌が露出することは、一見、ひ弱になったように見えるが、そのようなメリットがあったのか。そこでは脚力が発達し、また直線的な二足での走行が可能なように、骨盤や下肢の発達が伴ったはず。しかし、それだけで体毛がなくなったというのは、まだ合点が行きにくい。頭毛、脇毛、陰毛だけが残ったのはなぜなのか。なにかさらに高度なロジックがあったのかもしれない。

 走っていない時、日陰にいる時、夜間などは寒くて不利ではないか。そこには暖を取る家が始まっていたのではないか。南アフリカの洞窟住居の話は番組の次回にありそうなので、その後の話題にしよう。

 ひ弱な二足歩行者は集団化して自衛し、また獲物獲得のために攻撃し始めた。アルディピテクス・ラミダスの時代には一夫一妻制が始まったという。他家族の共同生活は集団生活に向けて脳を発達させただろう。象などに見られるように、動物の集団生活、利他的行動はすでにある。人類の集団化、社会生活は前頭前野の知性の発達を促したか。手の発達は道具的理性を始めさせ、社会化は社会空間の形を構想させ始めたはずだ。シェルターとシェルター間の空間の形成へと進むのだろう。

 番組では、人類は偶然と逆転で進化してきたとしている。脳の発達についてはまだ話がない。私は、人体がひ弱になったからこそ、それをカバーするために脳の発達があったのだと思ってきた。そもそも、強者には進化が必要でない。弱者は絶滅するか、さもなくば進化を通して生き延びるかしかない。脳の発達は生き延びるための瀬戸際状況がもたらしたものだ。これは教訓としなければならない。現代社会においても強者は、進化した弱者によって克服される。民主主義とは弱者の社会進化の結果ではないか。王国、独裁政権は進化の上では古い。

 人類が裸になったのには、持続的走行という積極的な目的があったからというより、突然変異で弱体化したのではないかという説を捨てきれない。二足歩行は猿の集団の中で弱者が森から追い出されて地上に降りざるを得なかったから、という消極的な理由付けはできないのか。遡れば、強者の甲殻動物が地上を支配した時代に、表皮が弱くて無防備で、餌食にされていた脊椎動物が逆転して行ったのは、柔らかで変形しやすい身体が進化を進めることができる自由度を残していたからではなかったか。

 弱者たる人類は手と脳を発達させ、知性をもとに、大自然に対して手を加え、改変し始める。人工というものがそこに始まる。そしてひ弱な体を自然や外敵から守るために、居住空間を人工的につくることになる。家の始まり、そして集落、都市の始まりがある。今日の人工知能もまた、そこに始まった。artifact =人工物。

 枝切れが武器となり、割れた石が道具となることを覚えてから、知性は発達し始める。洞窟の隠された空間、家族生活のための木々で囲まれたスポット等に住居のイデアが始まる。集団生活を囲う集落空間というイデアを見出す。やがて道具的理性は住居を人工的に構築する技術を生み、集落や都市を形作る輪郭としての壁とその内部の空間における住居等の配置のロジックを形づくらせる。そこにイデアなるものが生まれてくる。少し先走りすぎたか。