中世都市の有機的であること

 有機的という言葉は幅広く使われてきた。生き物のアナロジーが基本だが、ここでは生物進化に関わるところに絞って考える。

 ドイツ中世都市は12〜13世紀に、領主ないしは司教が新設した新都市に始まるというのが定番。当初は計画都市だった。もっとも中世の計画都市は整然と直線だったり碁盤目だったりしないので、地図上でもすぐにはわからない。それはさておき、新都市も時間とともに拡大する。それは計画的にではないので、あいまいに広がる。そのうちに税金や仕事を押し付けてくる領主や司教と仲違いし始める。そうして自治の要求が始まる。経済的に、また宗教行事にからんで、自治権を主張しにくいだろうが、とにかく自治を獲得できていった。町の有力者による民主主義と呼んで良い参事会がつくられ、参事会館の建物が建って、領主の館や教会堂のほかに、もうひとつの都市景観をかたちづくる芯が生まれる。ラートハウスは市庁舎と訳するが、直訳すると参事会館。

 バンベルクはその過程が都市形態に表れていて面白い。丘上の見事な大聖堂はの足元に始まった市街は、川を超えて次第に広がり、うねる街路網が有機的な都市構造をつくった。そして川向うに生まれた街路風広場が中心となる。市民は市庁舎をつくるが、政治的なかけひきから、市庁舎は小島を介して川にかかる橋の上に置かれた。これは複雑な形となったが、バロックの装飾で目立った。

 そのような整然としない都市構造が、自治獲得の闘争の歴史を記しつつ、かえって生き生きとした都市活動を表現している。有機的ということは生命体のようなものということ。都市が広がる際には、中心街路は田園へと続き、他方で川沿いには漁村集落が育った。多様な要素が絡まりあった複雑系の都市構造は、単なる都市拡張というのでなく、自治都市として進化しつつ、生長する生き物のような景観をもたらした。

 都市がじわじわと拡大する時、一個一個の新しい建築物、ここでは町家が付け加わる。その町家は一定のルール、暗黙の慣習に従いつつ、そこに見出された不整形な場合もある土地区画を機能的空間にさせてできるもの。つまり、全体の一元的な秩序は存在せず、個の最適解となる。その集積が町並みをつくる。既成の町並みの中で改造がなされる際にも、その場での最適解とし、新しい町家が形を得る。個が集積して全体ができるという、一種の有機的システムが形作られるのだ。

 イスラムの迷路都市も全体的な形態秩序なき有機的システム。そこでは中庭型の閉鎖的なユニットを前提とした。ヨーロッパではファサード、つまり入口側の壁をステータスとして形式化されていたので、迷路的にはならないが、曲線街路網の複雑系ということでは共通する。有機的システムにも条件となる変数が異なると、様々な景観に多様化する。そういう意味では高級住宅地として次第に広がった世田谷にも迷路都市のような性格が見いだせる。他方で世界各地の大都市近郊のスラム地区も、一種の有機的なシステムがあると言ってもよい。

 ただ、一元的な秩序がないだけであればカオスになる。どこが違うかと言うば、そこに不可視の秩序志向があって、その場での住みよさ、機能性などが追求されているということ。法律化されない共通意思があるということ。つまり、個に共通意思が内蔵されているということ。ヨーロッパの中世都市の場合、キリスト教をともに信仰することで、相互の共同体意識が働いていた。この時代、宗教なしであれば相互信頼が育たず、有機的システムはできなかったろう。ルネサンスが中世の暗黒時代を解消したような議論がよくあるが、それは表面的な解釈。中世型の宗教は、人々が仲良く平和に生きるためにあった、一種の共通意思。そういう意味ではトップダウン的な形式主義的理想都市に走ったルネサンスより、ずっとボトムアップで、個が尊重されていた。中世型の有機的民主主義がつくる都市像を見直そう。世俗化し、頽廃する聖職階級が本来の宗教精神を腐らせてしまったのだったが。

 ただ、ひとつの宗教は異教徒の差別という暗い原理を備えていて、ユダヤ人はゲットーに押し込められた。ユダヤ人の商業力や知力は都市のエネルギーにもなったので、全く追放されはせず、いわばそれも有機的システムに組み込まれていたようだ。生命体の進化過程は、敵対する生命体の遺伝子を糾合することで先に進んだ。異種の要素を有機的なシステムに糾合できた生命体こそが、より高度の生命体になれる。人類がその証。

 計画都市と自然発生的な都市の対比がよく唱えられるが、より適切に言えば、後者は自然に進化を経ながら有機的な複雑系を形作った都市ということになる。単に野原にできた原始集落を有機的とするだけでは不足。あるいは非計画的に建築物を集積したというだけでも不足。個が時間をかけて集まり、全体を作ったというシステム・モデルを見落とすと安っぽい都市論に陥る。