多文化共生を形態と装飾の二重構造で調整

 異文化を受け入れる際には、自前の文化を捨てるわけではなく、また単純に共存させるわけでもない。どうするか。より高い次元に立って、制御することがひとつの解決方法である。高い次元とは、具体的には抽象的な形である。そこに形態と装飾の二分化が起こる。

 脳内ではどのようなことが起こっているのか。装飾の細かい形、色彩、表現性などは、視覚野で個別に処理されるだろう。情報量は多く、処理も手間がかかるだろう。海馬はフル回転するか。全体の輪郭をなす形態の方は、大きな幾何学的な輪郭であり、情報量は少ないから、脳内で複雑な処理は必要ない。たぶん、処理する場所は異なるだろう。

 単純な矩形の白い壁、といったミニマリズムが強い印象を残すのは、情報量は少ないけれども、情報処理を肩透かしされるからだろうか。人は転けたことをよく記憶する。一瞬の時間、鋭い痛み、すべてを忘れてハッとし、驚く。これは脳のどこが活性化しているのだろうか。他方でミニマリズムは気づかずに見過ごすことがある。顕在的な意識では何も起こらないが、それと気づかずに目を通して、脳のどこかが反応しているだろう。ミニマリズムというものを知っている人は気づくかも知れないが、一般人は見落とす。気づけるようになるには訓練が必要だ。

 いずれにせよ、ミニマリズム的な形態美と個別具体的な装飾という二元論ができている。空白が目立つ日本の絵画では、空白という情報量ゼロこそに意味がある。意味の量がないことに意味があるというのは逆説的だが、そのような次元を体得していることに一日の長。印象派の画家達はそこに目をつけた。ライトはそうして日本贔屓になった。

 輸入文化を得意としてきた日本人。他国の価値を貪欲に吸収しながら、巧みに、それを装飾のように切り分けてきた。白いキャンバスを用意し、空白を残し、装飾がない場所を残す。抽象の次元へ逃げ込んで、自らの立場を保持する。

 日本の家庭には縫いぐるみやらキャラクターグッズがあふれる。それらは純洋風でも、純和風でもなく、多国籍折衷、あるいは無国籍化。ここで言う装飾。日本人は装飾好きなのだ。空白を埋めるように次々にグッズが取り込まれる。この日本人は、空白の次元を好む日本人とは違う。かつてブルーノ・タウトは抽象的な伊勢とバロック的な日光を対比させた。いずれも日本人。ここで民族性に拘るのはやめよう。いずれの民族もそれぞれの仕方で両者を併せ持っているから。ただ、我々の振る舞い方を考える手立てとして、このような分析があってよい。

 多文化共生の方法を考えるのに、この抽象形態と装飾アイテムの二元論が役立つだろう。抽象形態は意味性を削除してあり、もはや民族性という意味性も消えて行こうとするもの。受け入れるそれぞれの民族性が出た装飾が、ごった煮になってもよい。抽象形態がしっかりとキャンバスをなしてくれていれば。