宗教のパラダイム転換過程

 古代神話型の宗教と中世キリスト教型のそれの土台の違いはどう表現したらよいか、悩んでいたが、少しヒントあり。宇宙型と救済型。まだわかりにくいが、ヒントにはなる。古代人はともかくも宇宙を理解する言葉を必要とした。中世人は地上の人が死後、幸福であることを求めて物語を必要とした。それでは近世人は?彼は地上で、現在の幸福を望んだ。つまり天を忘れてよかった。

 しかし、天を捨て、死後の世界を捨てただけで済むのではなく、天、死後の新しい見方を確立し、過去の世界観を修正してしまわなければ、いつでもそれが復活する可能性がある。だから、宇宙の理解のためにクールな自然科学が構築された。死後の人間についても解剖学を通して人体を科学にした。救済のためにキリスト教は残ったが、もはや中世の、弱い人間像は捨てられた。いわば自己実現が新しい幸福感となった。天才はいま・ここで開花してよい。死後には何も期待できるものはない。

 まさに、ルネサンスは芸術家の時代。万能人の時代。

 ルネサンスにおいては宇宙とは円。地上の正方形とで、ドームを載せた集柱式建築。ダビンチ、ブラマンテ。宇宙は幾何学で、つまり人工的な科学で解釈された。そして神人同形説。生身の人体には比例が宿る。人間を中心に置く宇宙観。他方で最高の美を創造する人間。地上で、あるがままで救済されている。宇宙論と救済論は一体化した。生きていること、生命のもたらす能力をすべて働かせることが目的となる。美と幸福の追求。

 ルネサンス古代ギリシャの各種の学問、知識体系を学び直した。それは宇宙論の批判的発展。キリスト教権力は続くが、もはや原点の救済論を忘れていたため、宗教改革は聖書の文面に戻って救済論の脱構築。近世とは伝統の批判的継承。革命でありつつ再解釈による再生。人文主義とはその有様への命名。古代、中世、近世へという過程は一定の連続性。このプロセスは必然だったのかどうか。進化だったかどうか。とりあえずは西洋社会では進化論的。

 日本もおおよそ似たような進化過程と理解しているのだが、それはホモ・サピエンス的な普遍性なのかどうか。中国ではどうだったのか。複雑な経過なのでわかりにくい。風水論・儒教の時代から仏教の時代へ、そして(風水論・?)儒教の再生、という過程が説明されている。洛陽・長安の風水型首都、隋・唐ではそこで仏教。元の北京の風水型もどき。この古代儒教の最盛期は古代哲学を再生させたヨーロッパのルネサンスとパラレルなのかどうか。ここがわかると普遍性と言えそうだが。日本も含めた普遍性。宇宙型、救済型、自己実現型(人間中心思想型?・・・命名しにくい)という過程。

 とりあえず、仏教の脱構築がアジアでの近世か。中国での有り様がわからないが、日本では信長の比叡山焼き討ちがイメージされる。石山本願寺一向一揆とは何だったのか。仏教の脱構築だったのか。キリスト教の流布と排斥のプロセスは、結局、武士階級支配のもとで儒教の再生、寺請制度による仏教の世俗化に終わる。宇宙型、救済型の宗教は脱構築されて新体制を築いたか。

 秀吉の京都は、古代型宇宙観の批判的継承か。聚楽第大内裏の跡に。条坊制、そして方位、鬼門の風水論は結局、継承された。御土居という新しい近世的な境界線が加わったが、宮殿たる秀吉二条城(第)を中心に置く明快な都市形態。いやにヨーロッパ的。人間中心思想=宮殿中心都市構造。新しい宇宙観、救済観。

 秀吉は死後、豊国廟・豊国神社で神となる。仏教的救済は不要。それは家康の東照宮に継承される。もはや俗っぽい神。

 このパラダイム論は、だいたい筋は通りそうかな。