ヴェネチアのウィルス・ショック

 ヴェネチアカーニヴァルが終盤になって中止にしたことは象徴的だ。都市文化を蓄積し、都市の上に都市を重ねてきたことでは一流のヴェネチアが、自ら引き籠もった。都市の華やかさの上に華やかさを積み重ね、爛熟させ、発酵させてきた、その都市が人気のない静けさに覆われている。

 都市とは人が集まる場所、交渉しつつ価値を生み出す場所、商いで得た余剰を散在する祭りを催す場所、そこだけの人間社会文化を造形する場所だ。閉じこもっていては都市ではない。一時的ではあるが、都市が都市たることを捨てた。だが、泣いているだけでは仕方がない。何度もペストの流行を乗り越えてきた。ほとんどが宗教的にだが、あの鳥の嘴のようなマスクで芸術に引っ張り込んでしまった。したたかだし、プリミティブながら科学的。コロナウィルスに対してはどのように芸術化するか。デジタル・アートとなるか。表情がつくるフェイス・コミュニケーションは、フェイス・マスクで零度となる。ただ目だけがかろうじて気持ちを伝える。

 観光客で溢れるヴェネチアは、逆説的な現代都市であり、超高層の林立を拒絶しつつ先端芸術都市としての仕掛けを編み出した。人間的スケールを保ち続けるという仕掛け。祭りで広場に観光客がひしめき、social distancingをなしようがない。祭りとはそもそもsocial gatheringなくして成り立たない。強いいて言えば、無観客ページェントをウェブ中継し、みんなは自室でテレビやネットのディスプレイで参加するしかない。世界中でファンが参加。しかし密着なしにはオキシトシンドーパミンも出ない。視覚情報、音響的情報のみ、つまり一時感覚野で処理した情報のみが直接に情動脳を単線的に刺激する。面白みは劣るが、情報に修飾を加えることはできそうか。

 かつて16世紀のペスト克服を記念して、パラディオがイル・レデントーレ教会堂を設計し、17世紀の流行時にもロンゲーナがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会堂を設計した。悲劇は芸術を残す。今回はどうするのだろうか。数字ばかりを追いかける近代資本主義社会はそんな余裕を与えるものではないか。感染症を克服するのには科学的な研究に膨大な金を注ぐべきだし、今さら神に祈願するわけにもゆかないか。日本の政府などは毎年膨大な赤字予算を組みながら、感染拡大を防ぐために補償金をつけるのさえけちるといった金銭計算しかできない。世界的なモニュメントとして東京のシンボルになるはずだったザハ・ハディドのスタジアムさえけちり、安価だが目障りの良い化粧建築で代替させてしまった政府だから。教皇のいるイタリア(ヴァチカンも含めて)だから違うだろうか。

 あの人との交流が得意なイタリア的人情が災いして、ウィルスの感染戦術を助けてしまった。新教徒の多いドイツは科学的、合理的で成功しているが、カトリックの伝統文化は脇が甘い。EU不信からナショナリズムが強まりそうだという噂だが、世界に範を垂れるような芸術を残して欲しいと期待する。都市のsocial gatheringを象徴するにはモニュメントを残すのが人間文化だ。外野の勝手なやじみたいだが。