ウィーン脳vsベルリン脳

 1871年プロイセンがフランスとの戦争に勝利すると、ドイツ帝国が創立され、すぐに泡沫会社期と言われるバブルが起こる。バブルは弾け、経済の停滞を招く。しかし、統一される前のドイツの諸国からあらゆるエネルギーが新帝都ベルリンに集中し始める。若い帝都は成長を続け、世紀転換期を迎える。やがてエネルギーを溜めきった帝国は諸外国に制約されて爆発し、第一次世界大戦を引き起こす。

 その間に南ドイツのバイエルン国は夢見る国王ルートヴィヒ二世のつまづきを経て、吸い取られていく。北西ドイツのケルンにあった未完の大聖堂はドイツ民族の象徴と位置づけられ、ドイツ帝国の象徴へとすり替えられる。北東ドイツを支配するに過ぎなかったプロイセンの首都ベルリンはドイツ帝国全土の核となって求心力を高め、一極集中の空間構造が生まれる。

 落日のオーストリア帝国は華やかな宮廷文化の名残にルサンチマンを高めつつ、屈折した精神構造を見せた。世紀末ウィーンを彩る文化、芸術、学問の隆盛が、この時代の時代背景を持つウィーン脳の反映だったとすれば、若い帝都ベルリンは対象的なベルリン脳を呈したと言えるかもしれない。

 ドイツ表現主義ゴシック様式の独特の解釈を見せた。世紀末ウィーンの芸術にはゴシックはほとんど見えない。むしろバロック建築の伝統が息づくウィーンは、世紀末もバロック、そして華麗なネオ・バロックをベースに展開したと言えるのかもしれない。ネオ・ルネサンスの建築家ゼンパーがウィーンに建てたホフブルクの宮殿、劇場、博物館ではネオ・バロックに移っていた。

 ゴシックは民族の様式と見なされ、ネオ・ゴシックは大衆をも巻き込む文化運動となった。宮廷文化と民族文化の対比が、ウィーンとベルリンの違いをつくる。若い帝国は不安定であり、成長とともに直面する問題を乗り越えるのに苦労する。華やかで高級な知恵を大脳皮質の記憶にちりばめるウィーン脳は過去の栄光にこだわるが、素朴でシンプルな知識を基盤に新しい知恵を獲得し続けるベルリン脳は可能性と希望に満ちていた。伸び上がるゴシックの尖塔こそベルリンの精神を代言していた。

 ブルーノ・タウト第一次大戦後に著した『宇宙建築士』と題する絵本は象徴的である。そこではゴシック大聖堂が成長する樹木のように伸び上がり続ける。やがて限界に達するとそれは大崩壊を遂げる。拡散した石は降った雨の後に、まるで新芽を葺くようにあちこちで小さな家を建ち上げる。そこに全くあたらしい世界、宇宙が生まれる。これがベルリン脳の姿そのものだったのかもしれない。

 ウィーンでは芸術は視覚野の各要素に還元された。タウトは色彩建築を唱えてそれを引き継ぎ、ガラス建築で光をテーマにする。背景にはゴシックの尖塔モデルが、また中世社会のような田園都市の都市イメージがあった。尖塔形はグロピウスにもミースにも現れる。他方でメンデルゾーンはアインシュタイン塔で視覚野の線的輪郭要素を活性化させる。ウィーンに生まれた還元主義はベルリンに継承され、内向性から外向性に転じ、表現主義の精神構造をもたらす。

 鬱のウィーンは躁のベルリンに逆転した。このベルリン脳の姿を、これから解きほぐしていこうか。一過性の熱病と見られることが多いドイツ表現主義の、未解明の脳構造は再評価されねばならない。21世紀を切り開いていくのに一助となるはずである。