ミケランジェロの造形脳

 ゼキによるとミケランジェロの彫刻、絵画に未完成が多いのは、作為的だったという。未完成の部分に対して鑑賞者が多様な読み方をできるのが、彼の意図なのだそうだ。やや穿ち過ぎのような気がするが、覚えておきたい。私には、ただ、あまりに目標が高いために自らにプレッシャーをかけてしまい、自縄自縛に陥ってしまったのではないかと思える。

 鑑賞者に対する姿勢という意味では、ある程度、共感できるところがある。建築物のデザインにおいては自己満足よりも使い手のことを考えるものだろう。サンピエトロの場合、足元からドームに至るまでの力の流れが表現された。それは見る者に安定さを印象づけ、安心感を与える。その力感を表現しようとするのは、メディチ家礼拝堂の彫刻に表れていたものだ。

 ブラマンテの完全な半球体としてのドームは、ミケランジェロによっては捨てられ、やや尖り型のドームとなり、かつ上下のラインが目立ってくる。プラトンイデア幾何学秩序はやや崩されるのだ。それが盛期ルネサンスから後期ルネサンスバロックへというミケランジェロの傾斜を象徴している。静謐な秩序ではなく、力動性を孕んだ安定感が目標化されていた。

 その変化の方向性は、彼自身の内部に閉じられた完全性ではなく、社会、といってもこの時代は今日的大衆社会ではなくメディチ家に代表される都市貴族たちの社会が求めたものだったろう。ミケランジェロの変遷過程はまさに、この時代の社会に運命づけられたものだった。ルネサンスとは人の内側で進行する生理的な現象に突き動かされて起こっており、現状に留まることをよしとしない人間的な欲望がそうさせた。

 より新しい、より納得のゆく表現を求めて、様式は急速に変遷してしまい、ミケランジェロの脳内での進化スピードに、制作が追いつかない。そうなれば、制作途中の作品が、もたもたしていると矛盾を孕んでしまう。未完成のままを少し間を空けてしまうと、改めて着手しようとすると、もはやイメージが合わなくなっている。そんなことがミケランジェロを悩ませていたのではないだろうか。

 建築であれば、おおよその図面を一気に描いておけば、あとは弟子たちが形にしてくれる。完成した頃にミケランジェロ自身が不満に思ったとしても、組織がカバーしてくれる。自ら最後まで手をくださなければならない彫刻や絵画はそうはいかない。サンピエトロは完成に至るまでに他の芸術家の手に移り、プランなどは大きく変化させられた。

 つねにより新しいもの、より生き生きしたもの、より深い表現ができたものを求めるというミケランジェロの脳を分析したい。出発点の造形感覚は記憶に残り、脳内で様式化している。その際の様式とは眼と手が関わる視覚野、体性感覚野、運動野、そして時代の要請などの知恵が関わる前頭前野、創造することの芸術的意思が関わる扁桃体(?)、等々、全脳がある流れのようなものをつくっているのだろうか。その流れ方が、いわば自己批判の連鎖をたどって急速に変化してしまったら、終わりというものがなくなる。

 芸術と脳の関係についていくつか新しげな書籍を当たった勉強してみたが、もうひとつ腑に落ちず、この造形作業というものがわからない。ゼキは視覚野との関連で絵画の解釈方法を教えてくれるが、動的な造形意思のところが欠けている。カンデルはいきなりフロイト的な性衝動のテーマに没頭してしまい、飛躍がある。もう少し考えよう。