ドーパミン論からデザインを考え直す

 デザインを悪者扱いする言葉がよく見かけられる。曰く、経費の無駄遣い、遊び、目くらまし、実用性を阻害するもの、etc. 確かにそのような「デザイナー」も多いので、非難を受けるのも道理かもしれない。

 JABEEという工学教育の学科の資格審査のようなもので、デザイン能力が規定されていて、ある頭の固い学者が、これは建築デザインでいうデザインとは違う、発明、創造を指す言葉であって、芸術性は関わらないのだと言った。なんという屈折。デザインの本来の意味を知らないでデザインを悪者扱いするアンチ・デザイン派は哀れだ。どうしてかの芸術家ダビンチが発明家として傑出していたのかがわかっていないでは、建築教育の審査などする資格がない。デザインとはデ・サイン、つまり意味を創造すること、ルネサンス期に使われたディゼーニョがその基になっているが、それはいわばダビンチがスケッチを通して発明を深めていった作業のこと。初歩的な芸術行為を通してこそ、発見や発明が可能だったのだ。

 

 建築家は依頼された建築物の設計過程で、まずは初期的なスケッチから始める。いくつものヴァリエーションを試しながら、最初の案とは異なる、より適切な案を見出していく。それはまちがいを修正する理性的な作業であるよりは、より効果的な形を発見する過程であり、新しい案を見出すたびに快感を伴っているはずである。つまり中脳から線条体へとドーパミンが放射される。より優れた案へと進む過程は終わりがない。しかしどこかで止まらないと、実施案は生まれず、未完に終わるので、やむなく強制的に終わらせることとなる。ドーパミンが出続けるということは、中毒でもある。

 作らない建築家、ペーパー・アーキテクチャーのデザイナーというべき人がいる。表現主義期のフィンステルリンなどが代表だ。とても現実の建築物とは思えないような、曲面ばかりで床も湾曲するような建築物にお金を出すようなクライアントはいない。しかしデザイナー自身はそれでも、より大胆な創造にドーパミンで快感を覚え続けられる。ゴッホなども似たようなドーパミン中毒者だったのかもしれない。売れなくともより新しい絵画世界を見出しつつ描き続ける事に快感を覚える。その作品の新しい快感性に人々が気づいたのは、彼がドーパミン中毒で悶え苦しみ、命を絶ってしまった後だった。

 

 中毒者にまで至るのを人間、その脳の構造と仕組みを生み出した創造主の望むところではなかったはずだ。ドーパミンは新しい発見、創造を促進する触媒であり、道具的人類の進化の誘導者。報酬系という言葉があるが、まるで馬の目の前に人参をぶら下げて走らせるかのようで、功利主義的に聞こえる。もっと本質的な脳内システムがあるはずだ。脳内麻薬という言葉もギャグのような言い草。人類、いや生命体の進化プログラムとしてドーパミンはシステム化されているのではないか。

 建築家は既成の価値観で設計に取り掛かりつつ、次第に未知の形を見出して、設計課題のより優れた答えを得ていく。もちろんここでは売れるためだけに精を出す商業建築家ではなく、建築像の進化 をつねに心がける、健康的に前衛的な建築家の話。新しい発見、創造の一歩ごとにドーパミンが放射される。逆に言えば、ドーパミンなくして進化はない。デザインの快感なくして新しい文化は創造されない。デザインを誤解してはならないのはそういうことだ。俗物の批評が哀れなのはそのことがわからずに足を引っ張るからだ。

 モダニズム草創期の建築家たちは、そのような意味で進化に携わったデザイナーたちだった。1925年のアールデコ展で、進化よりも商売が優先されるようになるまでの話。開拓され、進化し続ける混沌とした新しい宇宙は、やがて切り刻まれて装飾部品となり、商業建築の商品に、政治的プロパガンダのフレーズのようなものに貶められた。デザインは副次的なもの、お飾りと誤解されてしまった。デザインの本当の意味を再生するには、健康な脳内でドーパミンが果たす役割を正しく理解すること!

 アハ!体験というのだそうだが、何かに突然気づいた時に覚える快感。いくつかの案件が絡まってもやもやしている時に、突然すべてを統合してくれる発想を見出した時、ひとり嬉しくなるものだ。浴槽に浸かっている時、あるいは森を散歩している時の、突然のひらめきに、脳が爽快感を覚える。新しいアイデア、新しい形を見出すデザインとはそういうもの。

 ドーパミン的、ないしは脳内物質システム的な建築デザイン論の可能性が少し見えた。ちなみに、以上は中野信子『脳内麻薬』を読み飛ばした後の感想文なのだが、わかりやすい語り口は助かったが、ドーパミンの奥深い正体までは見えず、期待はずれ。彼女自身は研究者というよりは、科学を楽しむ学者アイドル?彼女自身が現代的知識社会のドーパミンのようだ。