人間−環境系の脳化

 弱者こそ進化できる。とりわけ、脳の進化が起こる。

 男性社会では弱者である女性の方が脳の進化が起こっているのか。ただ、ずる賢くなっていくのであれば不幸なこと。より理性的な思考方法ができるように前頭前野が発達するのであれば、人類の文明は進む。北欧では議会の過半数を女性が占めているところがあるという。エコロジー、持続する生態系という意味でのそれは、女性の方が身体的にもわかっているから、特に今の時代には求められる。

 生態系の危機は、生態系が弱者になっていることを意味する。人工的なシステムが発達しすぎて、生態系が虐げられている。そうであれば、進化するのは生態系。生態系を保全することは、単なる現状保存ではなさそうだ。より進化する脳と弱者化した生態系が連携すること。それは人工物を有機的システムにして、生態系に合わせること。そのシステムはより進化したシステムであるはず。

 コンピューターがますます小型化することは、生態系に人工的な頭脳が分散的に細かく配置されること。生態系は生き抜かねばならない。人類の生存より生態系の持続の方がより大事。

 さて、そのような有機的システムとして都市・建築は改変されなければならない。これは地球社会の大課題。

 かつてラスキンは中世主義を通して近代人に人間的な感性の復権を唱えた。モリスは手仕事による居住空間再生を実践した。これらは百年後の現代的では生態系の保全再生に相当する。人間性の意味が一段階深くなった。ポスト・モダン期に始まる20世紀の中世主義、歴史主義、感性主義等々は、懐古趣味や復古運動、耽美主義に終わるのであれば未来はない。それを切掛にして新しい、進化した有機的システムの発見と創造につながらなければ、21世紀とならない。ペヴスナーの、アーツ・アンド・クラフツからバウハウスへというプロセスを再来させよう。ちなみにイギリスの復古主義者たちはこのプロセスを手仕事への冒涜として、愚かにも断罪する。

 人間の脳内での進化は時間がかかる。しかし人間−環境系という空間構造的なシステムは、極小化したコンピューター・チップによって、いわば環境頭脳を形作ることができ、進化させられる。強者たる人工的空間構造に対抗し、弱者である生態系の維持のためには必要なこと。

 障害者が義足を付けると同じように、いたんだ環境には補助装置としての建築物が役立つ。建築物はモニュメントである必要はない。ポスト・モダンの装飾ごっこ化は誤った道。進化論的に正しいポスト・モダンとは共生型の建築物。まずは生態系の現状を直視せよ。そしてその障害が何かを見い出せ。そして義足のように生態系の能力不足を代替せよ。

 脳内でもそのような思考をなす部分を活性化させよう。脳の使い方の問題。