アラブ・ノルマン様式

 さまざまの経緯があって、マイケル・ハミルトン・モーガン『失われた歴史 ー イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』を読むこととなった。これは結構なカルチャーショック。

 ヨーロッパがルネサンスを開始するのは古代ギリシャ・ローマの文献を再発見したから、とはよく知られていること。しかし、そのある部分がアラビア語経由でラテン語化されていったことは、その筋の専門分野の人たちしか詳しくは知らない。中世、キリスト教が支配したヨーロッパは、イスラム教のアラビア科学に大きく遅れを取っていた。そのアラビア科学は古代ギリシャの科学、哲学を翻訳し、それを土台に独自に発展させていた。イスラム文化の最盛期にはユダヤ教徒キリスト教徒にも寛容であり、今日のイスラム原理主義、またキリスト教福音派原理主義などからイメージするような独善性はなかったようだ。

 モーガンは、中世アラビアにおける科学と合理主義の姿を具体的に掘り起こし、系譜を明かしながら、本来のイスラム文化をドキュメント小説風に読ませてくれる。2007年の出版であることからわかるように、9.11後の現代との対比をさせながら、現代人の大きな誤解を解こうとする。中世のイスラム文化は、今見られているような時代錯誤の宗教性偏重ではなく、当時においては世界先端の近代思想だったと言う。アラビア数字に知られるような数学、アルジブラはアラビア語起源、アルゴリズムもまたあるアラビア人の名が起源、そのほか、天文学、医学等々、近代科学の基礎はアラビア科学が開拓していて、それなくしては成立していたかどうか。

 なぜこの本を読んだかと言うと、シチリアのアラブ・ノルマン様式というものの成立した基盤が知りたかったから。「12世紀ルネサンス」と言われる当地での文化興隆はアラビア語文献を経由してギリシャ哲学をラテン語に翻訳したことに発するという。キリスト教下の中世からいち早く脱するような近代文化がそこに芽吹いていた。そのような12世紀にこの建築様式は、イタリアの中世様式に、ギリシャから来るビザンチン様式、アフリカから来るイスラム建築様式が混ざり、見事な折衷様式をなしていた。パレルモの宮殿、大聖堂、モンレアーレ大聖堂などがその傑作である。

 なぜそんな独特の様式が成立したのか。それはシチリアのノルマン王朝がなした宗教的な寛容政策だったという。しかしそれは寛容というよりは、アパシー、つまり無関心と言ったようが良く、あるいは超越していたと言った方がよいのかもしれない。北から来たノルマン人は独自の建築様式を持っていたが、それはいわば合理主義様式であり、装飾は少なく、のっぺらぼうな大壁面が目立ち、質実剛健な構造、躯体を特徴とする。そのノルマン人が、シリアあたりの教会堂形式を導入し、壁面をビザンチンのモザイクで覆い、イスラムの背高アーチとムカルナスで屋根と天井を形作る。まさに好いとこ取りの折衷様式である。一段高い位置から見下ろして、各様式の価値を査定し、組み合わせたような塩梅である。

 モーガンの説をもとにすると、シチリアを挟んで科学技術は南高北低、つまりアフリカの方が高く、ヨーロッパの方が低かった。一応、キリスト教のもとのノルマン王朝だが、より水準の高いイスラム建築から技術移転して何が悪い。イスラム教徒もシチリアでは活躍してもらわなくちゃあ、というわけだ。「寛容」とかいう甘い言葉では済まない。先進国から技術移転、文化移転するようなものだ。しかし、ローマ教皇庁は癇に障ったらしく、異教の文化を導入するのに苛立ったらしい。シチリアに拠点を置く神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世などは、何度も破門宣告を受けていた。この皇帝はまるで、そんなの関係ねえ、と馬鹿にしたようだが。キリスト教の方が原理主義的で、イスラム社会の方が寛容で視野が広かったようだ。モーガンもこの点を強調していて、この本の基調をなしている。

 本格的なルネサンスが始まる14世紀以降、脱宗教の感覚が高まるので、こういったキリスト教イスラム教の中世は乗り越えられのだが、とりあえずシチリアのアラブ・ノルマン様式というものの文化的な基盤構造がわかったような次第である。折衷主義、日本で言う折衷様なるものも、こういった目で解釈し直せば、単なる寄せ集めではなく、ある種の合理主義と言えそうだ。