フリードリヒ二世の多文化共生と普遍建築

 12世紀末から13世紀中頃にかけて、神聖ローマ皇帝として時代を牽引したフリードリヒ二世の人生はあまりに面白い。中世をルネサンスへ導いたとも言われる。波乱万丈の人生という意味だけでなく、多文化共生というものを考える上でも。

 南イタリアに生まれ、シチリア島パレルモの宮廷で育つ。カトリックのもとに育つが、身近にアフリカから来たイスラム教徒のアラブ人たちが多くいた。いくつかの言語を操り、アラビア語も堪能だったとか。パレルモ王宮はアラブ・ノルマン建築として知られ、スカンジナビアのバイキングにルーツを持つノルマン人がもたらしたロマネスク様式に、アラビア建築様式が混じる。パレルモの町中にいわば折衷様式の宮殿や教会堂が点在し、郊外モンレアーレの大聖堂は西欧カトリック、東欧ビザンチン、そしてイスラムの様式が混じり、見事な折衷様式に目が回りそう。そもそもシチリア島古代ギリシャ人が植民都市をあちこちに建設し、本土を凌ぐ勢力を誇った時代もあり、神殿や劇場などの各種遺跡が残る土地柄。次元が高い。

 皇帝はローマ教皇にせっつかれて十字軍を指揮し、エルサレムへ。都市パレルモイスラム教徒と共存する文化を築いていた。皇帝は戦争などしたくはない。エジプトに拠点をおいていたイスラム王朝と交渉に入る。状況は複雑だったようだが、結局、血を流さずにエルサレムを譲り受けた。キリスト教圏は聖地回復と喜んだかと思いきや、軍事力でイスラム教徒を蹴散らして聖地奪回するのが十字軍の使命だったはずだと教皇はカンカンになる。皇帝はしょっちゅう破門されるが、「カノッサの屈辱」とはいかない。

 シチリア島から南イタリアにかけて、広大な領土を支配するノルマン王朝。おまけに皇帝は南ドイツのシュタウフェン朝から血筋を引き、北と南の考え方が混在。教皇派と皇帝派が対立して小競り合いを繰り返す時代。皇帝は危なっかしいが見事に采配。これは多文化共生のモデルとしてよいだろう。古代ギリシャからローマ、ビザンチンイスラム、また北欧、中欧、地中海が入り混じっている。

 混ざっただけではない。多文化を超越する次元が開拓された。カステル・デル・モンテという城、あるいは宮殿。正八角形の外郭と中庭。見事な幾何学建築文化。あちこちに気づかれた城塞も円形、正方形やら、グリッドやらで、明快な幾何学形。各様式の装飾文化を超越するように、抽象幾何学ルネサンスを先取りしたと言われるが、発想は中世を越え出ていた。

 多文化の、それぞれの伝統文化を見ながら、より高い意識に立てば、抽象化は必然。どの伝統とも共生するには、抽象化、ミニマリズムが容易に見出される。どの伝統にも媚びず、等距離に。一応、キリスト教徒だが、イスラムにもシンパシー。中世型宗教精神を超越したところに、普遍的人間文化が育つ。たしかにルネサンスの先取りだった。ルネサンスは中世キリスト教文化から脱出しようとしていたことを忘れるな。

 加えて、実はこの皇帝の時代、アラブの科学はヨーロッパより先行していた。古代ギリシャの哲学や数学、科学の文献はイスラム教徒によってアラビア語に翻訳されていた。イベリア半島に進出したイスラム教徒の所持した文献は、やがてラテン語等、ヨーロッパの言語に翻訳。いわば、儀式化し、硬直したカトリック文化を土台にし、頭に血がのぼった十字軍などより、イスラム教徒のほうが一段高い精神を持っていたのだ。なるほど、カトリック大聖堂の儀式的な空間デザインより、モスクの合理主義的な空間デザインの方が、明快でわかりやすい。今の右翼的なイスラム原理主義から連想するとまちがい。イスラム建築様式をくせのある反転アーチやマニアックに広がるアラベスク文様と見がちだが、よく見ると見事な幾何学デザイン。偶像や写実的装飾を否定するだけに、普遍的な幾何学構成が育った。賢いフリードリヒ二世はその抽象精神を、建築形態のデザインで自らのものにした。一人の人間として理解し、吸収し、超越する。

 多文化共生は二段構えと考えるべし。コミュニティを形作るには宗教文化が役立ったが、一段上に合理的、科学的、より普遍的な人間文化が開かれていたのだ。