バウハウスのミニマリズム

 ミニマリズムのデザイン原理はシンプルなので、真似されやすい。まちがった使用には気をつけよう。本来のモダニズムミニマリズムに対し、ファシズム建築のミニマリズム。神話化の危険。

 ヴァルター・グロピウス は本当はデザインがうまくなかったという議論が聞かれる。共同設計者だったアドルフ・マイアーは目立たないが、黒子のように実質的にデザインを行っていて、グロピウスは口だけだったのではという批評もある。確かにマイアーが独自に設計したことが確かなフランクフルトの建築物はピュアな幾何学と大胆な機能処理で刺激的だ。しかしマイアーが去った頃に設計されたデッサウ・バウハウス校舎は誰が主導したのか。幾何学造形としては一歩後退するのかもしれないが、その空間構成におけるブレークスルーは傑出している。

 目に見える形に拘ると、建築というものの意義の半分しか理解できない。形が風景の中で消えていくという、一段高い造形性を理解するには、ステージが一段上がらなければならない。ナチス関係者がミース・ファン・デル・ローエに秋波を送っていた、ミースは回避したという事実。このギャップ。大半のミース信奉者が同じようにミースを理解していないように見える。

 今はミニマリズム全盛の時代。だがそのほとんどがエピゴーネン。スタイルとしてミニマリズムにあまり意味はない。ニュートラルなミニマリズムは誰でもができることだから、フラットな時代には繁茂してよいだろう。グロピウスのミニマリズムは一歩先、ラディカルなミニマリズムだった。形のミニマリズムを超えたところに、独自の機能主義が開拓されていた。その機能主義もエピゴーネン達によって急進性が擦り下ろされてしまった。ル・コルビュジエの急進性とともに。

 革命的なモダニズムミニマリズムとは、つねに還元主義。自己表現を削減してゆく。零度のエクリチュール。手の跡を消すことによって、生の自然が見えてくる。デッサウでは校舎の働きがそのまま見えてきて、アレンジ、つまり合理的な空間構成となった。自己表現、モニュメント性の削除。

 俗物的なミニマリズムはすぐにわかる。なんとなく化粧している。あいまいな情緒性。もちろんそれは人間的、あるいはコミュニケーションを促してくれる。優しさ。愛らしさ。ただ、必要な時には革命的になれるかどうか。彼らはそれを行っていた。そして、そろそろそれが必要な時代に差し掛かっているということ。この豊穣だが行き詰まりの時代、それが必要なのではないか。

 有名な建築家を叔父にもったグロピウス。危ない橋を渡る必要はなかった。にもかかわらずバウハウスをつくって革命に打って出た。デザインを根っこからひっくり返そうとした。視野の広い、賢い人物。単なる造形家ではなかった。時代をつくるアーキテクトだった。それを指して、造形がうまくはなかったとしたり顔の連中には耳を貸かさないほうが良い。