前頭前野の自立がすなわち近代か

 デカルトは、考える我という地平を抽出し、世界を数学で理解しようとした。古代の神々も中世の一神も関わらない、科学的な世界観が生まれる。近代の始まり。脳内では何が起こったのか。前頭前野は物語を創作して扁桃体の発する恐怖感やさまざまの感情を制してきたが、ここで扁桃体離れしたのか。前頭前野が独立宣言か。

 18世紀啓蒙哲学は科学を自立させたが、そういうことだったか。感情の影響を排除して、客観的な知の作用する世界。raison=理性の時代。論理的に整合性を持ち、感情の介入を排除。建築は冷たい論理だけの造る構築物となる。哲学の時代。ロージエの建築論。円柱と明快の構造論理の見える化。ピラネージは例えば柱梁の構造を超越的な巨大さで提示したが、そこには確かに畏怖という感情が入り込んでいたが、それは前頭前野独立運動という熱の表れであり、いずれ独立を達成すれば、情熱は無用となる。ブレのメガロマニーがその最終段階であり、革命後のデュランは感情を排した建築理論を完成した。

 18世紀の考古学の流行、ギリシャ建築の理想化。なぜ近代なのに古代回帰。これも前頭前野独立運動のプロセス。扁桃体側坐核の支配体制から脱出。パルテノンの柱梁の明快な構造論理が抽出されれば完了。古代人が見たパルテノンは畏怖すべき神の住まい。近代人は神離れ。明快な秩序の形而上学の抽出。科学へ。科学が自立すれば産業革命へ。

 そのようにして前頭前野新古典主義というパラダイムで自立。残された脳部位は前頭前野の独裁に異議申し立てとばかりに、ロマン主義を呼び起こす。理性よりも感情を。確かに人間活動の全体性は理性も感情も揃っていなければ成り立たない。産業革命の暴走は機械破壊運動という抵抗運動を招く。ラスキン、モリスのロマン主義

 19世紀は永く歴史主義が続く。さまざまの歴史的様式が記号化され、合理的構造に化粧材として貼り付けられる。なるほど、前頭前野の内部に記憶された古い様式が、各時代の感情を消し去り、クールな知識として残る。理性の骨格の冷たさをカモフラージュするかのように、言い訳としての感情表現の必要から、装飾として補完。いずれにせよ前頭前野の独裁。

 20世紀には前頭前野が支配する体制としての近代合理主義が改めてリストラを遂行。ロマン主義の進化した表現主義も、その進化した機能主義で追放。全体性の回復を目して側坐核扁桃体を活性化させた表現主義は、前頭前野の独裁を止められなかった。その独裁はポスト・モダンという時代まで、半世紀は続く。

 前頭前野は新しい脳。古い脳である小脳、中脳などの脳幹、および扁桃体側坐核などの大脳辺縁系との争い。所詮、前頭前野は単純で、大量の知識を蓄えているものの、シナプスの垂直構造。論理的整合性だけが価値観をなす。エビデンス提示が不可欠な科学者の世界。つまり、いわゆるヒューマニズムは介在しない。やはり脳幹が、とりわけ大脳辺縁系が働かないと困る。アルゴリズムだけで人間は成り立たない。AIの独裁に疾駆するのには抵抗運動が必要。制度疲労を起こした20世紀の感性はもう一度リフレッシュさせる必要。活発にイノベーションを続ける前頭前野とは、脳幹がリフレッシュして新しい関係を。ネオ・バウハウス

 まだすっきりしない。前頭前野は知識の集積。それを論理に組み立て、概念の体系にするのには、言語野が関わるのではないか。ブローカ野、ウェルニッケ野が。左脳の働きを勉強し直そう。