合理的造形の背景にある情動

 ダマシオは情動→感情→理性という順番を想定している。『意識と自己』の始めの方で。情動が非理性的なものとして下等に扱われてきたことに批判しつつ。情動があるから理性も働くのだと。

 建築学も都市工学も、まさに理系の学問だからか、確かに情動を論じることが少ない。そこを扱えば学問にならなくて、評論になってしまう。しかし、今の脳・神経科学の時代に、理性の部分だけを扱っているのは不満足。情動の部分を科学にできないか。

 表現主義が特異な心性の表れの時代として扱われがちなのは、このせいか。表現主義は叫びのようなものが伴った。ハンス・シャロウンのスケッチ。ベルリン・フィルのあの形。1918年頃の叫びは、ひとつには第一次大戦がもたらした多数の死、さらに奥には機械時代が引き起こす人間性への尊厳の喪失が背景にあった。建築の形も情動を表現する手段となった。

 ただ、ヨーロッパで次々と生まれた新しい形は、アメリカ商業主義の目には装飾にしか見えなかったから、アール・デコへ。アメリカ商業主義には別の情動が働いていた。アメリカン・ドリーム。つまりは素朴な自己実現欲求。より多くの世俗的成功。それも肯定しなければならない。ホモ・サピエンスの基本的な欲望は植物、動物を前にしての食欲。自然を支配下にせねばならないという衝動。成長の限界というものを知るまで。倫理なし。

 そもそもの表現主義の情動は機械時代という人類史の新しい頁にあって、人間性保全すること。叫びは恐れの表現であり、そこで終わる訳にはいかない。穏やかな創造性へと移行するべき。だから有機的建築へと移行。タウトは住宅団地の大きな、また細かい造形の快楽へ。アアルトは個性的な曲線へ。

 バウハウスの合理主義は冷たい機械様式と誤解されている。機能主義は後に批判の的となるが、そもそも機能主義を築き上げてきた背景の情動があったことは忘れられてしまっている。ダマシオの言う通り、理性を衝動が支えていた。結果としての理性の芸術しか見ない次世代、他地域の建築家たちが、本来の人間的な情動を無視した。

 グロピウスはバウハウス・スタイルなるものを否定し続けた。それはスタイルではない。バウハウスの情動の部分を併せてみれば、それは運動だった。ハーバードでも継続された運動だった。

 情動を科学するとすれば、まずは、機械の合理性に振り回される人間という、近代の構図を明示すること。そこには道具を発明したホモ・サピエンスの深遠な原罪のようなものが見られ、普遍的。そして、時代の技術環境を情動が使いこなし、モノの形にするプロセスを明らかにすること。ホモ・サピエンスに纏い付くデミウルゴス神話。人工的なモノと自然界の接点をいかに保つか。人新世のホメオスタシスはどのような構図なのか。自己破壊する前に安定化を。永続する人類社会の平和とはそういうことか。平和な都市の理想とはそういうものか。モノを造るという原罪を負ったホモ・サピエンスが自然界を傷つけつつも、傷ではなく、新しいホメオスタシスへの改変作業とすること。