⑭平和記念公園の理想都市軸

 平和記念公園は全国的な設計コンペを通して、当時まだ若い建築家丹下健三が処女作に相当するものとして設計した。彼は東京大学助教授となっていた時に広島市の戦後復興都市計画のために国から派遣され、被爆直後の焼け野原になった広島都心部の調査と計画策定に関わっていた。四国で育った彼は、広島の旧制高校で約3年間を過ごし、映画少年でもあって都心空間をある程度はよく知っていた。世界先端のモダニズムの建築デザインを習得した彼は、城下町の面影残っていた昭和初期広島の面影を脳裏に見つつ、未来都市像を描こうとした。それは戦後混乱期の自治行政にあって、あまり実現はしなかったが、平和記念公園の造形に濃縮された。(詳細は、被爆70年史編修研究会編『広島市被爆70年史 あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日』広島市発行、2018年を参照されたい(広島市公文書館HPに情報あり))

 その際に彼は原爆ドームを北に見通す軸線が設定できることに気がつき、それを公園の中心軸とし、諸施設を設計するに至った。南の平和大通りから公園を訪れると、正面にピロティの上に浮いた横長の箱形の原爆資料館の本館部分が迎えてくれ、左右をほぼ同様のデザインとなる四角い建築物が縁取る。ピロティをくぐって公園中心軸を見通せば、左右対称にデザインされた広場の向こうに慰霊碑がアーチ状に見え、さらに軸線の奥の方に、緑に挟まれた廃墟の原爆ドームが見通える。今ではその軸線は公園軸であるに止まらず、平和を祈る象徴的な軸線として人々の認識するところとなってきている。

 実はこの軸線は桃山時代に設計された碁盤目の街路網の南北街路と平行になっていて、あたかもこの平和公園軸に従って都心部が設計されたかのように見える。被爆後の焼け野原にはわずかの煉瓦造、コンクリート造の近代建築だけが廃墟となって立ちつくし、木造建築は壊滅したため、整理され始めた都心部には碁盤目の街路網だけが視野に入った。復興が始まった都心部で、公園軸はこの街路軸と平行だったために、あたかも公園軸から都市が再建されたかのようになった。戦前の広島を知る丹下自身、そのことを暗黙の内に把握し、平和記念公園を都市復興のシンボルとも想定していたことだろう。彼の脳裏には改めて被爆都市の未来像が一種の理想都市像として浮かび上がっていたと思われる。この際、都市は一新されるわけだが、それは約350年前の理想都市としての城下町を換骨奪胎し、原子時代の平和を目指した理想都市として描き直された。

 平和記念公園について、一般観光客は以前からこのような公園があったのかとしばしば勘違いするという。ここは城下町時代には西国街道沿いの中島本町を中心とする町人地であり、前述したように城下町の中でも独特の街路網からなる、高密な町人地だった。東側の元安川沿いは、自然な川の流れによってゆっくりと湾曲し、天神町筋の町並みがあって、碁盤目の都心部でほぼ唯一と言うべき有機的なラインを示していた。ここを歩けば湾曲する街路が見通しに変化を与え、独特のヴィスタを楽しませたはずである。前述したような鍵形となって折れ曲がり、見通しを遮る中島本町の街路もまた広島都心部で独特だった。それらのことから、中島地区は江戸時代には武士の目が届きにくいやや猥雑な町並みをなしただろうし、明治期には広島を代表する人間くさい繁華街のひとつとなった。つまり城下町のトップダウン型の管理された都心部空間に対し、ここは町人たちの相互コミュニケーションが息づく、ボトムアップ型の市街のイメージが、比較的に目立ったろう。

 その人間くさい有機的な界隈という性格は、おそらく戦後復興計画に着手した県庁の都市計画関係職員には、持続再生させるべきものとは感じられなかったろう。ファシズムを経てきた当時の官僚の目には、機能的、合理的で秩序だった街路網で都市再建すべきもとの映ったろう。今日ではわざわざ複雑に路地が交錯するような猥雑な空間を敢えて都心部につくるのがすぐれた都市デザインとされるが、当時はモダニズム、機能主義の理論が時代の先端と考えられていた。そういう意味では中島地区が元通りの人間くさい街路網で復興されなかったことは残念ではあるが、幸か不幸か、この一体を更地にし、平和を祈る公園とするという判断が、後の広島の象徴としての平和記念公園を生み出すこととなった。

 トップダウン型とボトムアップ型、抽象幾何学の街路網と有機的曲線や複雑に交錯する路地空間、前頭葉的思考と身体感覚をベースにする古脳の情感的な思考、古典主義対ロマン主義、そういった二項対立は時間の流れに沿って複雑に絡み合い、あるいは弁証法的な歴史過程というものをなし、人間文化の進化を続けてきた。広島にもそういった都市のダイナミズムを見ることができ、これからも続くことだろう。一方に世界平和のために平和公園軸というやや超越的とも言える理が屹立し、他方に都市市民が賑わいを造り出す複雑系有機系のうごめきがあって、はじめて人間都市と言えよう。