ギョベクリ・テペのT字形石板を再考する

 一万二千年ほど前のギョベクリ・テペ遺跡が頭にこびりついてから久しい。いろんな妄想が浮かんでは消えを繰り返す。そのアール・ブリュットのような様から、またひとつ解釈案が思いついたのでメモしておこう。

 なんと言ってもあの鍵板にも似たT字形の大きな石板が何を意味するのか、確定できないのだが、あるいは天地の空間構造の解釈から来ているのではないか。あるひとつの石板には肩から腕先までを表すくの字の彫り込みがあり、左右の指が折れ曲がって狭い前面にまで刻まれていて、人を表しているのだろうとされる。そうすればT字形の先端は頭ということになるが、それならもう少し頭らしく丸めることもあろう。しかしT字形の先端は前後にほぼ同じ寸法で出っ張った矩形であり、単純幾何学形に拘っている。

 人型が見られるのは、知る限りひとつだけ(他にもあるかは知らない)のようであり、たまたま制作者が思いつきでしたのかもしれない。むしろT字形の先端の横長矩形は手の届かない上方の存在を表現しているのではないか。つまり、樹木の繁茂する上部と垂直の幹との関係、あるいは黒雲から落雷があるように、重く大きな天と深さも知れない安定した大地の間が縦軸でつながれる様を、後頭部の視覚野にある線的、面的な認識をする神経細胞が反応して、単純な幾何学形態にして表現したと解釈できないか。

 天と地の認識、そして両者を刺し貫く垂直軸の認識、そしてそれをプリミティブに表現する芸術の始まり、そのようなものがまずはT字形の碑のようなものを想像させたのではないか。知的動物たる人間の、造形文化の最初の一歩と見てもよいように思われる。

 儀式の場のような大きな竪穴の中央には一対のT字形石板が立ち、あるいは偉大だった首長の夫婦の死後にその記憶のために立てた石碑とされたか。そうすれば人型だったことになるが、竪穴の周壁に多数のより小さなT字形石板が、壁面に対して垂直に差し込まれていて、まるで従者たちや家族を象徴しているようだが、そこには獣の表現が見られ、人とは想定しにくい。それは動物のアニマを表現しようとしていたとも考えられ、このT字形群は天地の間に挟まれた生物界を表したかったのではないか。人もまたその生物界にいるものであって、同様に石板の表面に刻まれてよい。

 近くのカラハンテペ遺跡からは素朴に人頭を表した石柱が発見されている。石板は次第に進化し、具象彫刻への道を歩み始めたと解釈できるのではないか。エジプトのピラミッドとスフィンクスは人類が抽象芸術と具象芸術の両極を見出し、確立させたことを示しているが、私はその始まりをこれらの遺跡に見出せるように思われる。

 ギョベクリ・テペの周壁に差し込まれた小型のT字形石板群は、まるで列柱のように輪をなす。そこには周壁が崩れるのを抑える擁壁のつくりと、壁の抑えとしての支柱のようにも見え、建築の知恵が垣間見える。あるいは木造小屋の構造の知識があったのかもしれない。中央の一対の大きな石板はあるいは小屋組の棟を支える支柱からきたのかもしれない。

 どういうわけか両石板はきちんと平行に配されていないので、先端部も向きがズレていて、ここに整形の屋根が掛かっていたとは考えにくい。あるいは整形の木造架構の住居があって、その柱をモチーフとして石板を思いついたのかもしれない。私が、T字形石板は天地と垂直軸の表現と妄想するのは、彼らが建築的な技術と空間認識において抽象的な思考を発達させていたと想定したいからである。

 メソポタミアの時代には日干煉瓦でジッグラトという高く巨大な台形構造物を築き、その上の単純な矩形の神殿は、角柱の雌型のようなものを壁面に彫り込んで、敢えて垂直模様を表現したが、柱という意識は乏しかったようだ。エジプトの時代には巨大な円柱が林立し、先端部には柱頭の形で横幅を広げた。柱頭は梁を支える合理的な部材ではあるが、そこにロータスの花形を表現したりしたのは、あるいは天の表現というイコノロジーの名残だったのかもしれない。そしてギリシア、ローマを通して柱頭付き円柱文化は花開き、神殿建築の建築部材となったばかりでなく、時には独立円柱として単独の碑のようになった。そのルーツをギョベクリ・テペに見出せるのではないかと言いたいのだが、そうすれば円柱文化というものの、脳内深くに根ざした、脳科学で解釈すべき人間文化が解き明かされよう。

 

 

自己愛のルネサンス建築

 中世から近世への変化は、とりわけ中世型宗教からの脱出という様相に特徴がある。中世型宗教、つまり西ヨーロッパではカトリック、日本では中世仏教、がマンネリ化し、そこからの脱出を人々が求めた意識が、大きな時代の変化をもたらしたことになる。中世型宗教の特徴は人間の内面に焦点が当てられたことである。古代型宗教であれば神話のもとの神々への畏敬という心理が構造化されていて、人間界の境界の外に焦点があったのに対し、心の中の有り様をテーマ化することが社会集団の結束をもたらすということに気づいた人々が中世型宗教を打ち立て、それが社会に共有することになった、しかしそれがマンネリ化すると聖職者の組織が精緻化し、形骸化、硬直化という道を深めてしまい、当初の意識は忘れられていった。

 ルターが16世紀はじめに宗教改革を始め、新教を形づくる以前から、組織的な締め付けから逃れようとする意識が人々に現れ、ルネサンス文化が始まる。ルネサンスとは再生という意味だが、それは文化的には古代復興という形をとるものの、根本は人間復興という再生だった。中世型宗教が愛ある平穏な社会を希求して、各個人に対して高い倫理感を要求し、タブーを定め、それに伴って人間の自由を拘束してきたのに対し、ルネサンスの世界観は人間性を改めて解放させたが、そのことはある意味で自己愛の心理を強くすることに通じた。自己愛とは専門用語でNPD(訳するとナルシスト的パーソナリティ障害)と言うそうだが、それは脳科学では、心を外へではなく自分に向けるデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という神経回路がベースとなり、また内省する際に活動する島皮質が関わっているという。

 フィレンツェ都心部にあるメディチ家の住宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は石積みの大きな建物で、今でも町並みを圧倒するように見えるが、それが建ったときには中世の町並みにあって異様に浮き立って見えて、市民の度肝を抜いたことだろう。敷地いっぱいに建つ矩形の塊は、とりわけ路面では粗い石積みのルスティカ風とし、まるで城塞のように威圧する。確かに有力な家系同士の血なまぐさい争いが続いた時代であり、さもありなんではあるが、人々が交流する町中にあって住まいを砦にしてしまうことには、自己愛の一端が垣間見られる。

 メディチ家の館は正方形の中庭を取り囲むように、明快な幾何学形をなし、奥には小さな矩形の庭園を付属させている。この単純さは見過ごすべきではなく、まさにルネサンス的な幾何学美の反映である。上階では回廊となる親密な中庭空間は、街路沿いの壁面が鎧で防備するようなつくりとしてあることと対照的であり、内向きであることを示している。そこに私は、中世から離脱しようとする自己愛の表れを見る。

 ルネサンス建築が幾何学志向であることは、一面、このような自己愛から来るものと考えたい。中世型の社会組織にがんじがらめだった時代から脱出しようとする意識はこのような新しい建築形態、またルネサンス型パラッツォ建築という建築類型を生んだようである。ダビンチは正方形をベースに中心に円形のドームを乗せる、単純な集中式教会堂のスケッチをたくさん残しているが、メディチ家の館の幾何学デザインはそこにも相通じる。ルネサンス建築は単純な幾何学形態好みだったということの背景には、このような自己愛型の志向が背景にあったと考えたい。

 もちろんここでは病的な自己愛ではなく、ストレスから解放され、リラックスする健康なDMNの活動という健全な自己愛のことを言っている。中世カトリックの教会堂には石造の聖人像が多く見られるが、宗教感情、時には悲哀を表すべくデフォルメしたものが見られ、リアリズムは避けられていた。日本の中世仏教で言えば、鎌倉時代の仏像でも憤怒といった表情を誇張し、デフォルメしたものが見られる。ルネサンスとなると、少なくともマニエリスムバロックへと移行するまでは、デフォルメの少ないリアルな裸体の像を求めるように一転し、人間性謳歌する表現となる。それもまた人間に備わる自己愛の脳内活動の表れと見てよいだろう。

 ヴェネチアの東方にあるパルマノーヴァはルネサンス理想都市の典型とされるが、それは正九角形の輪郭の内部に環状と放射状の街路を整然と配し、中央に正六角形の広場を置いている。この明快な幾何学造形は一見、神的、超越的にも見えるが、むしろルネサンスの人間中心思想を反映して人的、人工的で、人間業の成果でもある。簡単な城塞設備を備えていた正九角形の輪郭の外には、さらに大規模に幾何学的にデザインされた星形城塞施設が広々と展開された。パルマノーヴァはそもそも国境を守るための砦として設けられており、またオスマン帝国のヨーロッパ進出に対する都市防備が広く展開された時代だったこともあり、星形都市城塞は軍事的な機能性を備えていたことは確かだが、それにしても衛星写真で見られるその幾何学的な形は余りにも美しい。

 中心を有し、内側を明快な幾何学とし、外を甲羅のように固める発想は、メディチ家の館にもパルマノーヴァの都市形態にも共通する。ルネサンスの自己愛はこのようにして建築、都市空間を一個の個体として打ち立て、強固な壁で内を守り、内側を人工の空間とし、外側を敵や旧来の社会から隔絶すせるという空間構造をもたらしたわけである。

 注目すべきは近世とはそのような脳の使い方を標準とする時代だったことである。イタリア・ルネサンスのパラッツォ建築はさらに発展し、ヨーロッパ全体へと広がり、パリのルーブル宮殿やヴェルサイユ宮殿といったものへと至る。ヴェルサイユ宮殿(Château de Versailles)はそもそもシャトー、つまり英語のキャッスルであり、日本語にすれば城であり、当初は濠で囲まれた狩猟城だった。それが大規模化する過程で濠はなくなり、城の雰囲気は消え、今では宮殿(Palais)とも呼ばれことがある。

 話は跳ぶが、姫路城と言うが姫路宮殿とは言わない。日本の近世城郭は天守閣ばかりが注目されて、時には城と言えば天守閣のことと誤解されている。姫路城もまた大規模な住宅だった。洋の東西を問わず、中世から近世への変化は城から宮殿へ、つまり強固な軍事施設としての城から見映えを重視する美しい宮殿へという転換を果たす。信長以来、江戸初期までの城下町建設時代に注目すれば、城から宮殿へというヨーロッパ・ルネサンスの建築文化と相似した一面が見られる。脳科学的に言えば、あの安土城は信長の自己愛、また承認欲求の産物だったと言えそうであり、16世紀の戦国時代はルネサンスに相当するということになる。

 国や民族を超える脳科学の知見は歴史の読み直しを迫っている。

建築史を脳科学の語彙で読み直そう

 H.J.マルグレイヴの著書『建築家の脳』は、勃興しつつある脳科学的な思考法を建築デザインの世界に導入している。G.ゼンパーの建築理論についての研究から始めた建築史家である著者には、古代から現代までの建築理論の歴史についての著書があり、学者然としているが、現代的な感覚をもった思想家でもあり、新しい考え方に敏感である。そして脳科学関連の多数の書籍を幅広く読んでいて、その見識は注目される。

 『建築家の脳』は二部構成になっていて、前半ではルネサンスに始まる「近代」の建築家の思考法を、歴史を辿りながら10個ほどに整理している。「近代」は建築家が一人間として自立した時代であり、建築家の脳の生態を分析するのに適している。

 図面上で設計をする建築家は前頭前野の理知的な働きをベースにして仕事するわけだが、とりわけ目を使うので、後頭葉の視覚野が重要な働きをする。「近代」の建築家は個人の美的感性、表現感情を隠さないので、大脳辺縁系基底核の働きも重要である。またインテリア空間を想起するグリッド細胞も鍛えられる。石や木の手触りも操らなければならにので触覚細胞が、建物を利用する人の運動や身体的な快適感覚を想起しなければならないので運動野、ソマティック(身体)な感覚の脳部位も活性化される。等々、脳内で神経網がどのように分布、構成、ネットワーク化されているか、ということ知ることが重要になる。近年の脳科学の発達はそれを可能にするくらいに精細になってきており、マルグレイヴ氏はひととおりその分野の一般書を漁ってきている。

 本書の後半では脳内の構造や部位の働きが説明してあり、前半での建築家の思考現象を参照させつつ、建築家の脳を解き明かそうとしている。私も同じような試みをしてきて、脳科学者の著した一般書を多数読み漁ってきたが、脳の活動を理解するのにはなかなかの苦労をさせられてきた。マルグレイヴ氏の碩学さには一歩先を越された感を抱く。ただ、脳科学を建築デザインの世界に応用するにはまだまだ緒についたばかりであり、分析は初歩的と言わざるをえない。若い学生がこのような書籍を読んで刺激を受け、すぐにその語彙や分析方法を身につけ、柔軟な頭脳で独自に分析を始めることにより、十年もすれば建築デザイン、建築史の書き方が一変しそうに感じられる。

 私自身が脳科学に関心を持ち始めたのは、むしろ近代以前の建築史を見直してみたいという発想からである。中世の、キリスト教シリカ式教会堂の形はどのような脳内活動の反映なのか。古代のギリシャ神殿が円柱、列柱に拘るのはどうなのか。エジプトのピラミッドの幾何学純粋化は脳のどこを刺激させたのか。ストーン・ヘンジやギョベクリ・テペの角柱はどうなのか。そもそもホモ・サピエンスが建築物をつくり始めたのはどのような脳神経細胞の働きなのか。どうやら建築史の進化過程は脳内各部位の結び合わせ方、いわば脳内アルゴリズムの変化で表せるように思われるのである。ひとつのパラダイム転換が起こりそうだ。

 他方で、19世紀末期から20世紀初期にかけてのモダニズムの勃興から成長の過程も、脳内アルゴリズムの急速な変化過程として説明できそうである。そしてポスト・モダニズムから今日にまで至る過程も、同様にして脳内アルゴリズムの変化過程として理解できるように考えてきている。いろんなアイデアが浮かんできているのだが、それらを整理し、全体像に組み立てるには高齢者にはむずかしい。若い人たちの柔軟で開拓精神のある頭脳の持ち主に期待したところだ。

前部帯状回と中世バシリカ式聖堂

 不安に関わる前部帯状回は24野であって、32野は共感に関わるという。両者は隣り合っていて、後者は前頭皮質に接している。ここでまた妄想してしまうのだが、古代神殿の時代から中世キリスト教聖堂の時代への転換はこのあたりに関わるのではないだろうか。古代神殿が不安をなだめるための装置だったとして、中世聖堂は共感する共同体のための装置だった。

 コンスタンティヌス大帝は312年、ミルウィウス橋の戦いでマクセンティスを破ってローマに入るが、その戦いでキリスト教の十字架とラバルムを旗印に掲げて勝利したとされる。翌年に彼は迫害され続けてきたキリスト教を公認し、後にローマ帝国の国教となる糸口とした。そして彼は母ヘレナとともに各地のバシリカ式聖堂を建設させることとなり、新しいビルディング・タイプを創始した。宗教の中心は神殿から聖堂へと移ってゆく。

 バシリカ式聖堂とは、三廊式(五廊式もある)の大空間の集会所であり、かつて裁判や市場などの多目的ホールだったものが宗教施設に転用されたものである。聖堂となった際に、横置き平入りだった建物は、端部に祭壇が備えられ縦置き妻入りに転換される。そこでは大規模な宗教集会が可能であり、キリスト教のミサに使われた。古代神殿では神室は壁と屋根で閉じられた空間であって、生贄の儀式を伴う宗教集会は前庭で行われたが、ここでは大勢の信者が祭壇に向かって、肩を寄せ合って整然と座を占め、ともに儀式の時間を共有する。そのプログラム化された共感のセレモニーは、生贄の祭壇の周りに集って個々に歓喜する神殿における現象とは根本的に異なる。バシリカ式聖堂は中世型宗教であるキリスト教の宗教類型を象徴する存在なのである。

 バシリカを転用した際、直接的にはローマの皇帝フォールム群の中にあるディオクレティアヌス帝のバシリカをモデルにしたとされる。ローマ帝国では自前のエトルリア型の神殿をもとに、ギリシャ神殿の外形を取り入れていたが、この頃は皇帝崇拝という宗教類型に移行しており、玉座を端部に備え、大規模な集会儀式を行えるディオクレティアヌス帝のバシリカのようなものが登場していたのだった。玉座はキリストの祭壇に取って代わり、集会の形式は神ならぬ世俗的な皇帝への崇拝から、心の内奥からの中世型の共感型集会に転換する。

 ごく単純化して言えば、古代宗教は天上や地下といった異世界の神を想念するタイプであるが、中世宗教はそのような神観念を否定し、神はより抽象化され、人間の心の奥に入り込み、人間は自らの心理でそれを受けとめ、倫理行動へとつなげるタイプである。これは人間心理の進化と見るべきである。共感とは他者の心理との交歓であり、そのような心理的社会化を神の代理者たるキリストが見守り、分け入ってくることになる。ちなみに仏教はキリスト教とは大きく異なるように見えるが、心の奥が舞台となるという点で、神々の古代宗教とは一線を画し、同じ中世型宗教と見なせる。

 バシリカ式聖堂の内部では、信者たちは祭壇上の十字架や、高みに据えられたキリストの磔刑像に向かってその傷みを共有しようとし、生まれながらにして原罪を負わされた一人に人間として、悲しみと不安感を再確認する。いわばミサの集会は隣り合って座る信者たちと、その同じ感情を共有しあい、キリストの唱えた相互愛を確認し、結束し合う儀式である。苦しむキリストへの傷みの共感、隣り合って座る信者たちそれぞれが抱く傷み、不安、希望という動揺する心との共感という心理現象が聖堂の中に集積され、重苦しくかつ暖かい雰囲気をつくりだす。生きることへの不安感と、それを共感を通して克服する装置としてキリスト教聖堂は機能している。

 古代神殿が前部帯状回24野で発火する不安感を前頭前野が描き出した守護神という仮想の存在の住居として出現し、人々を結束させたとすれば、中世聖堂は同じ前部帯状回24野で発火する不安感を、前部帯状回32野で発火する共感によって克服させようとする。前部帯状回の両ゾーンが密着して隣り合っていることに改めて興味がいたる。人類社会における宗教の進化は壮大な歴史をもたらしてきたが、それは頭蓋骨を挟んで内側での微妙な変化に対応しているようである。

 わが日本の仏教は衆生を救済を願う大乗仏教であり、苦行を通して煩悩から解脱するべく倫理感を心中で働かせ、その心理的な努力を共有し、互いに共感し合うという点で、キリスト教と同じ中世宗教のジャンルと考えられる。しかし、そこにはバシリカ式聖堂のような大勢の信者が集まる大きな集会空間はない。仏像が鎮座する金堂は建築形態としては神像を収容する古代神殿に近い。仏教が大衆化する鎌倉時代あたりにはある程度の集会機能を持った礼堂が付け加わるが、ほとんど発達しない。集会空間は近世の西本願寺御影堂、本堂あたりにようやく大規模となる。ただ、礼堂というものが現れたという点は、中世宗教のあり方、そして宗教施設の歴史という点で軽視できない。その背景には脳内で同じ神経細胞ネットワークとそれを操るアルゴリズムが現れ、進化を果たしていたはずだからである。

 

前部帯状回と古代神殿

 たとえば古代ギリシャ人が都市の守護神を定め、神殿を建てたが、そこにどのような脳内活動があっただろうか。アテネパルテノン神殿はかなり高度な石工技術が育っていたことを示しているが、その建築物としての輪郭は比較的わかりやすい家形である。それは単なる倉庫のようにも見えないことはないが、20世紀のモダニズム建築家でさえ感動を覚えるような深くかつ強い表現性を備えていた。

 そもそも古代人が人格神というクオリアを獲得したことは、彼らがそれ以前のアニミズム型の霊のような畏れるべき不可視な存在としての神の時代から、宗教構造を一歩前進させたことを意味する。そして畏れるべき神を遠い存在から味方をしてくれる存在に転換させ、アクロポリスの高台に呼び込むために住居を用意したことが、都市守護神の神殿の始まりだったろう。

 守護神として招くのは、彼らがつねに抱く、敵対する国への不安などを自らなだめようとしたからだったろう。パルテノン神殿には女神アテナの巨大なフィディアス作の立像があったとされたように、高台の住居には神の彫像が納められた。神殿は人々から不安を除き、そのもとに結束することで都市発展の期待を抱かせる。

 情動に関係する脳の前部帯状回で人は不安を発火させているという。そもそも生存欲を阻害するけがや病気への不安、気候や天変地異、また害獣や敵対者への不安は、生き物としてのヒトに早くから備わっていた情動ではあろう。とりわけ農耕社会が始まり、春の種まきから秋の収穫まで、豊作の期待と天候異変や過誤による不作の不安とに揺れ動きながら、緻密な栽培過程を計画し、農作業に勤しんだが、その際にも前部帯状回が発達していったという、前頭葉を介した期待と不安という情動セットが脳を巧妙化させた。戦への不安、勝利への期待といったものも前部帯状回を発達させたろう。都市繁栄の守護神への依存心は古代宗教を発達させた。

 石造のギリシャ神殿はそもそも木造建築だったものをいわば石で彫刻にしたものと考えられている。柱が外周に並び、一歩内側に壁で囲った細長い建築物の痕跡が発見されている。それを恒久的な存在として石造で模写したわけだが、材料の違いはさまざまの困難を生み、構造的な合理性を犠牲にして変形をせざるを得ないこととなる。柱は数個の幅広い石材を積み上げることとなり、プロポーションは重厚となる。列柱に囲まれた内側に長方形の神室がつくられるが、それは分厚い石造の壁で囲まれるので、構造上は列柱はなくてもよい。あくまで木造の時代の列柱で囲まれた建築の姿を継承するために、石造の列柱が欲しかったのである。列柱と壁の間の吹き放ちのような細長い空間はプテロン(翼)と呼ばれる神殿の内に含まれるので、ペリプテロス(周翼式)という様式とされる。ちなみに古代エジプトの神殿にも円柱文化は栄えたが、そこではこのような円柱は神殿内部に用いられていて、ギリシャ神殿のようにランドマークになるのに貢献することはない。そこにはオベリスクという一対の独立する角柱があったが、意味合いは全く異なる。

 その周柱の個々の円柱は、繊細なエンタシスと呼ばれる膨らみを持ち、フルートと呼ばれる精緻な溝掘りが施されている。柱頭は特に気配りがなされ、ドリス式、イオニア式、コリント式といった装飾が施されることとなるが、それらは自由にデザインしてよいのではなく、決まった形式に則りつつ、それぞれの神殿で携わった建築家によって微妙に変化する。まわりから見られる円柱こそは神殿建築の真骨頂となる。そしてデルフォイに見られたように、円柱は建築物がなくても一本で自立し、先端に彫像を乗せて記念柱となるにも至った。

 神像は外から眺められないので、不安をなだめてくれる神への期待は目に入る建築物外形に託される。屋根を乗せる梁を支えて、素朴に垂直に立つ柱は、重力に抵抗して強靱に見え、天地の神話的な空間を繋ぐ縦糸としての意味も持ち、宇宙観のメタフォリカルな象徴とも認知されただろう。円柱は古代建築文化の要として確立するわけだが、それは古代とともに終わるのでなく、建築文化の遺伝子のようになって現代まで陰になり陽になり、生き続けている。

 法隆寺などの日本の古代木造建築にもギリシャと同じエンタシスが見られることが知られているが、素朴な円柱というものへの欲求という意味で、日本人の建築文化の遺伝子に円柱は確実に座を占めている。両者の間に影響関係はないが、脳内の作用という点では同じアフリカ由来の人類だからこその共通性であろう。両者は脳の構造、ひいては共通する遺伝子がもたらした、ふたつのヴァリエーションに過ぎないのであり、そもそも古代神話型の宗教もまた共通する遺伝子のなせるわざである。

尾状核から建築様式学が変わるか

 NHKのさる番組によると、性的依存症に陥った人の尾状核が萎縮しているという。尾状核は新しい体験に際して学習し、記憶に残し、その後の似た体験の際に重要な働きを示すという。新しい体験は感覚器官を刺激し、その情報は脳にもたらされ、身体は何らかの反応を示してその情報が脳にもたらされる。フィードバックによって記憶が残される。また尾状核は大脳皮質などから入力される興奮刺激が過剰なループに陥るのを抑制する働きもあるという。尾状核はバランサーとして異常事態を避ける働きをするようだ。

 他方、尾状核は芸術美に感動する際に働くともいう。石津智大氏は、崇高美は恐怖感に反応する脳内各所と尾状核頭部とが連携するという。恐怖感の刺激はネガティブで嫌なもののはずだが、それが尾状核でポジティブで美的な情報に転換されるのか。崇高美という概念は18世紀のヨーロッパで盛んに論じられたものだ。聳え立つ岩山を目にして覚える恐怖感は山への畏敬感情を生み、登山や旅行の文化を促した。同時に廃墟と化した古代神殿遺跡のおどろおどろしい風景は、古代文化への畏敬感情へと転換され、古代神殿などを模倣する建築スタイルを流行させた。

 現代は超高層建築が競って建てられているが、その垂直に天に伸びる輪郭線は一種の畏敬感情を呼び起こす。その際にも尾状核頭部が発火しているのだろう。建築家にしてみればそれは人心操作の手段になる。人々にいかに強い美的印象を与えられるかは、異様で、また恐怖でもあるはずの超高層建築を、畏敬や崇高美といったポジティブなものとして受け入れてもらえるかにつながる。その操作テクニックを習得した建築家は評判を上げるだろう。

 そのような崇高美の現象は人類が建築物を造り始めた時から起こっていただろう。三内丸山縄文遺跡に復元された太い木材の骨組による塔状の建物、また出雲大社の壮大な塔状神殿建築などにも尾状核を刺激することが狙いとなっていただろう。ヨーロッパの中世ゴシック聖堂のそびえる塔、また形は違うが古代メソポタミアのジッグラトや古代エジプトのピラミッドなどもまたその類いに含まれるだろう。いわば人類は尾状核文化を続けてきていることになろうか。

 尾状核は絵画などに対して覚える快い美的感情にも関わっているらしい。いったい美とは何かという哲学的な問いを、尾状核を媒介に考えてみれば、物理化学的なものに過ぎない、目から視覚野に至り、さらに脳内各所へと発射されるパルスを尾状核が受けとめるのだろう。興奮刺激を受けた神経細胞がそこで抑制される。その物理化学的な現象が、心理的な美的感情に転換されるとすれば、尾状核は単なる転換器であり、また偉大な転換装置とうことになろうか。わたしたちが芸術美を語り合って壮大な文化を形づくってきたのは尾状核という装置のおかげとなろうか。

 美と一言で言ってもそこには膨大な数の様式や種別がある。素朴な分類学に止まっている建築様式学を尾状核を媒介にしてシステマテックに整理して描いてみたいが、まだまだわずかに見通しが開けそうな段階だが、必ずこうして新しい学問が生まれるだろう。先は永そうだが。

オーラ感覚を制御する術を共有したい

 プラトンの天上中心のイデア論に対するアリストテレスの天上界、地上界の二元的宇宙論は現代にまで続く永遠の二項対立だ。

 モダニズム建築が生まれる時に、一方に兄貴的なグロピウス、他方に彼のアドバイスを受けたミース・ファン・デル・ローエがいた。今、後者は多くの建築家が造形の参照先にして、建築形態の進化をさせてきているのに対し、前者はまるで影がうすい存在として忘れ去られようとしている。実は前者の方がはるかに視野が広く、近代建築の誕生に大きな貢献をしていたはずなのだが。

 モダニズムが始まり、多様な試みが機能主義建築へと収束して行った際に、方向を指し示したのは理論的にものを考えるグロピウスだった。そこでは従来の個体として一体感を求めた建築観が解体され、分散化の方向に向かった。分散化する個別の空間群、またパーツ群は機能合理性によってつなぎ止められ、それが機能主義建築の形をもたらした。建築躯体は凸凹していてよくなり、バラバラになりそうなところが19世紀に育ってきたピクチュアレスクの視覚美で落ち着かされた。ここで言うピクチュアレスクとは、塔屋、主屋ヴォリューム、水平の広がりを組み合わせた建築物の輪郭のつくりである。

 グロピウスのデッサウ・バウハウス校舎はそのような分散型の建築像を見事に機能的にまとめた傑作である。グロピウスがバウハウス後継校長に抜擢したハンネス・マイアーはベルナウの研修施設の設計でそれを継承し、進化させた。そこにはラディカルなピクチュアレスクが登場してしたが、より保守的なピクチュアレスクはオランダや北欧に現れた。保守的というのは、19世紀のピクチュアレスクが視覚上の印象を重視したところを引き継いでいるからである。グロピウスらはあいまいな伝統的な建築美の感覚を否定することで建築革命を遂行しようとし、全く新しい建築美を開拓しようとしていたが、一般市民、また先進的な建築家たちといえども、それを理解できなかった。そのためにいまだに彼らは影がうすいままとなっている。

 ミース・ファン・デル・ローエはグロピウスの建築革命に促されつつ自身の独自路線を開くのに成功した。その際に彼は古くからある建築物のモニュメント性、そのオーラを巧みに新しく生まれた単純な幾何学立体の建築躯体に注ぎ込んだ。それは人々に受け入れてもらうためには賢明なことだった。もっとも彼はモダニズム建築家というには実は保守的な人物だったという批評を一部で受けたりもする。彼はドイツ時代には革命的な建築形態をコンペや展覧会で提示して注目されたが、その裏で伝統的な住宅で顧客たちを満足させていたのだった。

 ミース・ファン・デル・ローエアメリカへ移住した後、ようやくその革命的な建築像をアメリカの資本主義と結びつくことで実現させた。当時のアメリカ合衆国は建築文化の上ではヨーロッパに後れを取っていたが、先進文化に機敏な一部の知識人や資産家たちがナチスに追われるようにアメリカに移住するモダニズム芸術家を歓迎した。彼はイリノイ工科大学キャンパスや、シーグラムビルを代表とする超高層建築を独自のモダニズム美学で実現させていった。

 あえて例えれば、グロピウスはアリストテレス的であり、機能主義を通して地上界の物質を整える手法を開拓し、その上で天上界の建築美の感覚を改変しようとした。他方のミースは単純な直方体の建築像をプラトンの言う天上のイデアと同調させ、それを地上に実現させていった。グロピウスは分散する立体群を機能的にまとめつつ、新しい見え方を開拓して、その有効性を社会に理解させようとし、その原理はむしろ技術重視の建築家たちに受け入れられたが、いわば地味は世界に埋没していった。他方でミースは一個の建築物を鉄とガラスで創る新しいモニュメントとして、人々のオーラ好みを満足させた。

 かつて古代ギリシャ神殿などに見られた、建築物を壮大に見せて人々の目を圧倒させたオーラの感覚は、グロピウスが否定したかったものだったが、ミースは根っからの保守的な感覚でこれを活用した。実はナチスの代表的な建築家シュペーアはグロピウスを徹底的に嫌いながらも、ミースに秋波を送っていたりした。そのモニュメンタルな建築像はシュペーアを始め、ナチスの求めたところだった。彼らは巨大な石造建築を理想としつつ、サーチライトの直線的な表現などを使って近代技術にオーラ感覚を注ぎ込むようなことをし、ミースの近代的なオーラ感覚をやや誤解しながら親しいものと見ていた。

 ポスト・モダンの時代にシュペーアは突然のように再評価され、そのオーラの心理表現がもてはやされた。たしかに視覚演出には古代風のオーラはごく一般人の脳は面白がるものであり、いかにのポスト・モダンの一端をなすポピュリズム的な傾向には合致したのだろうが、一過性のものだった。擬似プラトニズムは長続きしない。

 地上界は今や地表のホメオスタシスが崩れるほどに、人工技術が地球環境をこわしてきており、グロピウス的な発想を求めているのだが、一般の資本主義はオーラを求め続けている。オーラを感じ取る脳内の部位はわかりはじめており、私たちはその部分をなだめる自己制御の術を身につけたいものだ。それはやや仏教的になるのかもしれないが。