⑮ボトムアップ型の仕掛け

 佐々木禎子さんをモデルとした原爆の子の像はドームを縦に引き延ばしたような土台の上に立ち、大きな折り鶴を高く掲げている。この像はボランディア的な募金運動に始まるものであり、平和記念公園の北の方、公園軸からは少し逸れて置かれている。記念像のことは広く知られ、全国の学校から、また国内外から持ち寄られ、送られてきたたくさんの折り鶴が捧げられている。

 今は記念像のまわりを円形に囲って折り鶴束を吊るす収納箱が設置されているが、かつては遠くからわざわざ持ち寄られた折り鶴の束は、その土台の足下に献花するかのようにていねいに置かれていたものの、しばらくたつと雨で濡れ、風に乱されたりし、市の職員が集めて別の場所に保管していた。時には放火される事件もあった。

 像が公園の樹林を背景に立つ様は静謐な光景となっていたが、やむを得ず設けられる収納箱の設置はその光景を変えるため、デザインには慎重を期さなければならなかった。像の土台はモダニズムの建築家池辺陽が戦後の1950年代にデザインしたものであり、緊張感のある曲面による抽象造形により、三本足のドーム状をなしている。半世紀後に補われた収納箱は、記念像を中心にして描いた円形の一部としてあり、そのモダニズム・デザインに呼応するようなミニマル・デザインである。それは像のイメージをできるだけ崩さないよう、控えめで目立たない幾何学造形となっている。

 透明なガラス箱状の収納箱は、持ち寄られた色とりどりの折り鶴束で、極彩色の飾りのようになっていて、無彩色に近い記念像と緑の背景による静謐感が失われ、かつての光景を知る人には違和感を催すようである。収納箱を打ち放しコンクリートで囲って無彩色とする案も検討されていたが、最終的には透明な箱となった。

 記念碑というものは孤高に立つのが貴いが、他方で全国からそれぞれの手で折り鶴を折って持ち寄られるという、たくさんの人々の意思の集積もまた貴い。そこにはボトムアップ型のデザインと言うべきものが社会現象として表れている。芸術家による崇高なデザインは価値あるものであるが、他方で多くの人々の意思を生で表現することもまた、一種の民主主義時代の集団芸術と言えよう。とりわけ世界平和のためにある記念碑であれば、孤高のデザインに民衆の集団芸術が連携することに大きな意義がある。

 被爆後80年近くになって、直接の被爆体験者の人数は次第に減り、いかに被爆の悲劇、反核兵器の意思を継承していくかが問われている。理想的には世界の70億余の人々すべてがそれを継承し、平和への意思を共有することであり、そのためには人々の心の中にヒロシマへ向かうベクトルが宿ることであろう。持ち寄られる個々の折り鶴はその象徴であり、原爆の子の像とその足下の色とりどりの折り鶴束がなす光景が、インターネットを通して世界中から見られることに意味がある。

 世界平和は政治家たちによるトップダウン型の施策だけで実現できるものではなく、世界の人々のボトムアップ型の意思表示を必要としている。グローバル化を果たした世界では、グローバルな民主主義を促す手段が求められる。独裁者が国民の意思を否応なく黙殺する専制国家がなお多くあるのが世界の現実であるが、20世紀以来の流れは国の枠も超えて世界の人々が善意の意思を持ち、交歓する方向に向いている。都市広島、そして平和記念公園の存在は直接、世界の人々、ひとりひとりの心と繋げ、世界をひとつにする貴重な媒体となりえる。

 平和記念公園を設計した丹下健三は、世界の歴史的な都市広場に学びつつ、公園の広場を「平和の工場」としたいと語っていた。公園の現状は慰霊の性格の強い静謐な空間となっているが、彼は人々が交流し合う、より活発な広場空間を思い描いていただろう。そこにもインターネットを用いたボトムアップ型の意思表示がなされる何らかの仕掛けが加えられてよいのかもしれない。

⑭平和記念公園の理想都市軸

 平和記念公園は全国的な設計コンペを通して、当時まだ若い建築家丹下健三が処女作に相当するものとして設計した。彼は東京大学助教授となっていた時に広島市の戦後復興都市計画のために国から派遣され、被爆直後の焼け野原になった広島都心部の調査と計画策定に関わっていた。四国で育った彼は、広島の旧制高校で約3年間を過ごし、映画少年でもあって都心空間をある程度はよく知っていた。世界先端のモダニズムの建築デザインを習得した彼は、城下町の面影残っていた昭和初期広島の面影を脳裏に見つつ、未来都市像を描こうとした。それは戦後混乱期の自治行政にあって、あまり実現はしなかったが、平和記念公園の造形に濃縮された。(詳細は、被爆70年史編修研究会編『広島市被爆70年史 あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日』広島市発行、2018年を参照されたい(広島市公文書館HPに情報あり))

 その際に彼は原爆ドームを北に見通す軸線が設定できることに気がつき、それを公園の中心軸とし、諸施設を設計するに至った。南の平和大通りから公園を訪れると、正面にピロティの上に浮いた横長の箱形の原爆資料館の本館部分が迎えてくれ、左右をほぼ同様のデザインとなる四角い建築物が縁取る。ピロティをくぐって公園中心軸を見通せば、左右対称にデザインされた広場の向こうに慰霊碑がアーチ状に見え、さらに軸線の奥の方に、緑に挟まれた廃墟の原爆ドームが見通える。今ではその軸線は公園軸であるに止まらず、平和を祈る象徴的な軸線として人々の認識するところとなってきている。

 実はこの軸線は桃山時代に設計された碁盤目の街路網の南北街路と平行になっていて、あたかもこの平和公園軸に従って都心部が設計されたかのように見える。被爆後の焼け野原にはわずかの煉瓦造、コンクリート造の近代建築だけが廃墟となって立ちつくし、木造建築は壊滅したため、整理され始めた都心部には碁盤目の街路網だけが視野に入った。復興が始まった都心部で、公園軸はこの街路軸と平行だったために、あたかも公園軸から都市が再建されたかのようになった。戦前の広島を知る丹下自身、そのことを暗黙の内に把握し、平和記念公園を都市復興のシンボルとも想定していたことだろう。彼の脳裏には改めて被爆都市の未来像が一種の理想都市像として浮かび上がっていたと思われる。この際、都市は一新されるわけだが、それは約350年前の理想都市としての城下町を換骨奪胎し、原子時代の平和を目指した理想都市として描き直された。

 平和記念公園について、一般観光客は以前からこのような公園があったのかとしばしば勘違いするという。ここは城下町時代には西国街道沿いの中島本町を中心とする町人地であり、前述したように城下町の中でも独特の街路網からなる、高密な町人地だった。東側の元安川沿いは、自然な川の流れによってゆっくりと湾曲し、天神町筋の町並みがあって、碁盤目の都心部でほぼ唯一と言うべき有機的なラインを示していた。ここを歩けば湾曲する街路が見通しに変化を与え、独特のヴィスタを楽しませたはずである。前述したような鍵形となって折れ曲がり、見通しを遮る中島本町の街路もまた広島都心部で独特だった。それらのことから、中島地区は江戸時代には武士の目が届きにくいやや猥雑な町並みをなしただろうし、明治期には広島を代表する人間くさい繁華街のひとつとなった。つまり城下町のトップダウン型の管理された都心部空間に対し、ここは町人たちの相互コミュニケーションが息づく、ボトムアップ型の市街のイメージが、比較的に目立ったろう。

 その人間くさい有機的な界隈という性格は、おそらく戦後復興計画に着手した県庁の都市計画関係職員には、持続再生させるべきものとは感じられなかったろう。ファシズムを経てきた当時の官僚の目には、機能的、合理的で秩序だった街路網で都市再建すべきもとの映ったろう。今日ではわざわざ複雑に路地が交錯するような猥雑な空間を敢えて都心部につくるのがすぐれた都市デザインとされるが、当時はモダニズム、機能主義の理論が時代の先端と考えられていた。そういう意味では中島地区が元通りの人間くさい街路網で復興されなかったことは残念ではあるが、幸か不幸か、この一体を更地にし、平和を祈る公園とするという判断が、後の広島の象徴としての平和記念公園を生み出すこととなった。

 トップダウン型とボトムアップ型、抽象幾何学の街路網と有機的曲線や複雑に交錯する路地空間、前頭葉的思考と身体感覚をベースにする古脳の情感的な思考、古典主義対ロマン主義、そういった二項対立は時間の流れに沿って複雑に絡み合い、あるいは弁証法的な歴史過程というものをなし、人間文化の進化を続けてきた。広島にもそういった都市のダイナミズムを見ることができ、これからも続くことだろう。一方に世界平和のために平和公園軸というやや超越的とも言える理が屹立し、他方に都市市民が賑わいを造り出す複雑系有機系のうごめきがあって、はじめて人間都市と言えよう。

⑬理想主義から機能主義へ

 理想は現実を無視して、あるいは現実認識が不足のままに描かれる。広島の理想都市計画は、地面に残る痕跡から、確かに実施に移されたが、さまざまの変化を伴い、理想像が完全に定着するにはいたらなかった。理想都市像ははかない夢ではあったが、だからこそ理想主義の時代が鮮やかに浮き彫りとなる。

 大手町筋の1〜5丁目までの均等な正方形群の区画割は、そもそも西側の元安川で削られた土地柄からして、整然と実現するものではなかった。都市計画者がはたしてどのような考えだったのか、訝しいところである。また、現鯉城通りにあった西塔川は、正方形の街区群が描かれた後に掘られたものと考えられ、大手町筋の東側の街区は正方形群との東側を削るようにして水路が掘られ、街区は東西幅が少し短くなり、長方形になったと考えられる。いずれにせよ、東西に5区画分くらいは正方形街区が復元できる。

 そして例の毛利期の都市計画図に見る限り、元安川を越えて西側にも碁盤目の街区網が敷かれており、本川を越えて西へと、寸法は一律にならなかったものの、おおよそ直交する街区網が実現する。ただ、その後の江戸時代初期の城下絵図では、元安川本川に挟まれた中島地区のゾーン、すなわち今の平和記念公園のところには、直交する街路網とは大きく異なる街路網となる。なぜ理想像はここに実現しなかったのか。

 その理由は文章記録もないのでわからない。ただ都市計画、建築の実状を想像しつつ、ある推測ができる。私はこの地区が、大規模な新都市建設事業のための一種の準備作業場として確保されたのではないかと考えている。つまり大量の木材などの建築材料が集められ、建築資材として加工される場所が必要だったはずである。まずは本川が建設用の資材運送のために掘られ、特に本丸周辺で求められた大型石材を遠くから運ぶために水深が確保されなくてはならなかった。それらの事情で本川は予定より幅広に、かつ直交街路網からはズレて斜めになり、整然とした格子状の都市空間を崩した。また作業場として確保されたために中島地区は街区形成がしばらく先送りとなった。ちなみに中島地区には文字通り材木町、木挽町といった地名が残ることとなる。

 そして城下町がある程度できあがり、中島地区に街路網を敷こうとする頃には、どうやら理想主義は早くも崩れてきていた。城下町より北にあった西国街道が城郭の南に移され、城下町中心部を東西に貫く幹線街路とすることになり、東部の東西道と西部の東西道は軸がズレていて、それを繋ぐようにして中島地区に幹線街路が敷かれると、それは斜めに走る歪な街路網となる。そして中島地区には幅を半分ほどにした小型の街区が形成され、この地区だけの碁盤目街路網となり、他の地区とは姿が異なるものとなる。そして中島地区の西国街道は、今の平和記念公園レストハウスのところで鍵形に屈曲していたが、これは江戸時代初期に流行した、あえて見通しを遮る道路計画手法だった。つまり理想都市の形式的な理想主義は、軍事的な機能主義へと転換してきていたのだった。

 京都においても古代の幅100m余りの正方形街区では、街区中央が空いてしまい、寺や会所となった。表の町家群は奥行きが30mほどもあれば十分であり、広島でも城下町建設が始まってほどなく、その問題に気がつき、よりコンパクトな町人地の町並みへと考えが変わったと推測できるのである。

 形式の完全性にこだわる理想主義は現実の前にもろいわけだが、しかしそれだからこそ理想主義というものの存在理由がある。未知の理想社会を脳内で希望し、それを理念化し、抽象的な幾何学という手段で未来都市像を描いたという人為的な営みこそ、人間文化である。未知の理想像を描くのは前頭葉の計画能力であり、それは同じく前頭葉の執行能力を通して物理的な世界に形を与えるが、そこに細かな調整作業が伴うわけである。人間はこのような未来を描くこととその実現という作業を何度も積み重ね、文化の進化を果たしてきた。こうして16世紀末期の日本は大きな転機となり、その後の近世城下町の時代へと続くのであるが、広島に見る理想都市はその変革期を象徴的に表している。ただ今の日本人にもそのような自覚はほぼなく、安土桃山時代の軍事的な武勇伝や、街づくりでなく城づくりばかりに目が向けられていることが悔やまれる。

 

 

⑫大航海時代の影

 『芸州広島城町割之図』でもうひとつ目立つことは、城下町南部を南北に走り、海へと続く三本の堀である。これらは海からの舟運のために設けられたと考えられ、いわば運河都市の様相をなす。新市街を築く際には排水計画が必要であることはこの時代には知られており、もちろん洪水も想定した上での排水路という性格も伴っただろうが、広島城下町の経過を見ても、これらは重要な舟運路となっていたことがわかる。

 16世紀という時代、ヨーロッパではネーデルランド、つまり今のオランダ、ベルギーを合わせた地域が経済的に栄え、北方ルネサンス文化の中心となったことで知られる。ブリュッヘなど、今のベルギーに始まった経済発展は、広大な低地での運河がその要となっていて、都市拡張の際には必ず運河網を伴う運河都市とする都市計画手法が確立された。それは今のオランダ地域へと経済中心が移動する際に、多数の運河都市を形づくったのであり、その最も栄えた都市がアムステルダムである。ブリュッヘの学者だったシモン・ステヴィンが理論化したとされる格子状街路網、運河網を備える長方形の理想都市案が文献で残されているが、その考え方はオランダ人が築いた植民都市バタヴィアに応用され、その遺構が今もインドネシアジャカルタに残る。

 実は『芸州広島城町割之図』の三本の堀を含む格子状の街区プランは、ステヴィンの理想都市計画図、またバタヴィアの都市プランが示す運河都市の構成と驚くほど似ている。これらはほぼ同時代に描かれ、また建設されているため、何らかの関連があったのではないかと疑われるが、何の物的証拠もない。たしかに京都をモデルとしていることはほぼ確かだが、三本の運河堀はそれとは全く関わらず、異質な要素である。ヨーロッパから来たキリスト教徒たちがさまざまの技術や知識をも日本にもたらしたが、当時の日本にはカトリックポルトガル人宣教師たちであり、プロテスタント系のネーデルランド人はまだ来ていないはずである。オランダ船リーフデ号が偶然に難破してオランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムスが日本に上陸する直前の話である。

 謎はあるが、何らかの道筋で運河都市の植民地建設の技術が信長、秀吉の周辺に伝わっていたのではないかと妄想するしかない。宣教師たちを優遇した信長は岐阜の山城から琵琶湖岸の安土に降りてきて安土城と城下町を築いたが、それは堺のある大阪湾から淀川、宇治川を経由して舟運が可能であり、大航海時代世界システムに参入しようというおぼろげな意思からだったろう。長浜の地を与えられた秀吉は海城を築いて同じく琵琶湖の舟運を城下町に取り込んだ。やがて大坂を築き始める時にはその傾向は頂点に達した。そしてその延長上に、広島に理想都市モデルが試みられたのだった。広島城下町の建設には大航海時代の影が落ちていたことになる。海洋でもスペイン、ポルトガルに取って代わろうとするネーデルランドは、当時、カトリック離れして新しい発想を持つ先端の哲学者、科学者の活躍する地になっていたのであり、その知識や技術が宣教師たちに浸透していたと考えてもよいかもしれない。

 広島の三本の運河堀は、別項目でも述べたように、今の鯉城通りとなる西塔川が中央に位置し、ここには雁木や石段が多数あって経済活動の要所となっていた。東側の運河堀の平田屋川は当初は武家屋敷地を貫くものとして計画され、北は城郭の外堀ともなる八丁堀となっていたが、後に都市構造が変わって西国街道が東西に走るようになると、町人地が広がってやはり経済活動に寄与するものとなる。これは後に埋め立てられて、今の並木通りになる。そして西側の運河堀は本川と呼ばれるようになり、今は平和記念公園の西岸をなし、ほとんどの人たちは自然の川筋と思っているようだが、『芸州広島城町割之図』から知られるように実は人工的な運河堀だったようである。それが証拠に両岸には荷揚げ用に河岸(かし)が設けられ、道路になっていた。

 ともあれ、明確な物証があるわけではないが、これら三本の運河堀が大航海時代の新しい舟運交通の時代に対応するものだったのではないかという説をここで挙げておく。瀬戸内海に南蛮船が入ってきてはいなかったともされているが、物流の質は大きく変化してきていただろう。今日はインターネットが世界のコミュニケーションの網をなして地球を一体化させているが、グローバリゼーションの発端は16世紀頃の大航海時代にあった。最近、大航海時代の東アジアの海岸沿いにおいて、日本人もその政治情勢に関わっていたらしいことが知られるようになってきており、鎖国以前には日本もまた大航海時代に関わっていたようであり、1600年前後の日本における新都市ブームをそのような視点で読み直すべきと思われる。ちなみにこの後、日本各地の近世城下町の多くは海辺に建設されており、さまざまのかたちで船着き場や運河堀を備えるようになる。

⑪広島城下町の形態構造

 桃山時代広島城下町計画図『芸州広島城町割之図』では、内堀で囲われた本丸が中心となり、中堀、外堀と三重の堀が巡り、上級武士が階層化して配置された。それが都市の北半の中央を占め、さらに中級、下級の武士が東西と南に配置された。南半は中央軸線で東西に分けられ、下京に相当する東側が武士地区、上京に相当する西側が町人地区となった。中央軸線はまるで京都の朱雀大路のように、二の丸の南門から南へ一直線に走るが、外堀から南へは堀(西塔川)が添えられ、海へと続いた。それは海からの舟運による経済活動を想定したものであり、荷揚げ場として両側に道が敷かれていたが、西側は町人地に続くものの、東側はほぼ寺社の用地となっていて、非対称だった。堀は近代になって埋め立てられ、路面電車通りとなり、今日の都心軸である鯉城通りとなって、むしろ朱雀大路らしく都心軸となった。全般に見て、広島城下町が京都をモデルにしていたことがそこにもうかがえる。

 この図には明示されていないが、町人地としてゾーニングされた市街地南西部の中心をなすように、南北軸が定められ、本町、後に大手町と呼ばれる。ここは60間(あるいは40丈)、すなわち約110mで均一に区切られて、1〜5丁目をなした。ただしこの南北道の西には元安川が迫り、町屋敷の並ぶ街区の裏手が削られたかのようになってしまったが、北端の1丁目東側には正確な正方形が残り、ここでも条坊制の京都をモデルにしたことがうかがえる。

 実はこの大手町筋の南北軸線を北に延長すれば天守閣に突き当たり、逆に天守閣の最上階からは、上級武家屋敷が挟まるものの南に大手町筋を見通せるわけであり、ヴィスタ(眺望)軸として計画されていたことがわかる。他の城下町でもヴィスタ軸をなす道が知られているところがあり、これは桃山時代の日本における都市デザイン手法となっていて、やはり広島城下町計画が中央の専門家が関わった当時の理想都市計画だったことを示唆する。被爆で建築物はほぼ壊滅したが、大手町筋の街路はほぼ現存しているものの、商業地の中心街は堀を埋め立てた広幅員の鯉城通りに移ってしまったため、今では隠れた存在になり、広島市民もほとんどがかつての中心街路大手町筋の栄光を知らずにいる。

 京都や大坂とちがって全くの新都市だったことから、奇しくも広島に桃山時代の理想都市モデルがより純粋に表れていた。そのことも広島市民のみならず、日本の研究者たちも気づいていないようである。ヨーロッパのルネサンスに似た都市の時代が日本にもあったことを再確認しなければ、なぜ今日、日本人の芸術家、建築家たちが世界の先端に与することができているか、説明がつかないと、私は思っている。ダビンチやミケランジェロといった芸術家・建築家の名が周知されているのに比べ、日本では建築家の名は全く上がらず、せいぜい城大工組織の家系名しか知られていないのは、中世から近世への進化ということを自ら認識できていなかったからである。個人の才能(ゲニウス)が脚光を浴び、人間礼賛が起こったヨーロッパに対し、日本はなお個人は組織に埋もれていて、中世からの脱皮をし損ね、江戸時代封建社会へと戻ってしまった。

 『芸州広島城町割之図』に理想都市モデルが表れていると言っても、相当に説明を加えなければ、すぐには納得しづらいだろう。戦国時代は激しい権力闘争、領土争いの時代であり、理想都市文化を知識人集団が論じあうような情勢にはなかったし、広島に領主の居城都市を築こうとした際には城郭と武士集団の軍営地を築く方に心が支配されていたことだろう。戦国時代までは山城と市場が離れていたが、それが合体するのが近世城下町であり、そこに領主の居城を含む都市というものが出現した。聚楽第という、富を具現させた芸術的な居城が現れ、その延長上に市場、つまり町人地を含む都市のデザインというものが成り立った。居城なしの都市という時代、純粋な都市デザインの時代はまだまだ先のことであり、そこは留保しなければならない。

 広島城下町についても、その全体的な輪郭は確たるものではない。『芸州広島城町割之図』を見ても都市の輪郭はあいまいであり、くねった川筋で縁取られたり、砂地に街路の先端が消えてゆくだけであったりである。秀吉の御土居で囲われた京都もまた輪郭はあいまいであり、ヨーロッパの理想都市のように正多角形の明快な幾何学形態は日本には無縁だった。しかし、他方で都市とその周辺景観が一体となる様は、有機的なネットワーク・システムとしての今日のエコシティという視点からは、むしろ望ましいものと言える。日本の造園思想を背景として、自然と人工を画然と分かつのでなく、都市を自然の生態系に寄生させるようなやり方が、消極的ながら庭園都市の姿を成立させたわけである。同図には川筋の有機的曲線が描かれ、周囲に山や島々が風景画のように描き込まれているが、それらが市街地の幾何学的な街路網と対立しつつ融合される様に、この時代の都市思想と呼ぶべきものが垣間見られる。

⑩グローバリゼーションのもとでの被爆都市の意味

 広島、長崎の原爆被災はアメリカ合衆国によるものだから、日本人はいっしょに反アメリカを加わるはずだ、などとメディアに発言している勢力が世界のどこかにいるらしい。これは次元の問題であって、私たちはもう一段高い次元から下の次元を見下ろしてどう説得したものかとため息をつかされる。

 私たちの視野は国境を超えた、またブロックをも超えた、ひとつの地球共同体にある。原爆は20世紀の先端科学がもたらした成果を悪魔的兵器に変えたものである。先端科学は人類の達成した文明の産物であり、それ自身は誇るべきものであるが、なくてもよい悪魔的兵器は、他方の人類進化の成果である人間的尊厳や理性社会の価値観を踏みにじった。70億余の個々人すべてがその価値観を共有する社会を目指さなければならない。

 グローブとは地球であり、グローバリゼーションとは文字通りに訳せば地球化となる。20世紀後期から、国境を超えるグローバル経済が急速に進展し、グローバリゼーションとはそのような経済体制を指すものとされてきたが、それでは視野が狭い。一方ではインターネットが世界をひとつのウェブとして編み上げ、他方で地球温暖化のような地球規模の課題が人類を一体化させてきた。いずれも地球化という言葉で覆うことができる。国ごとに別々に政策をとっていたのでは地球規模の課題に解決策はない。

 ソ連崩壊によって地球共同体の一体化が進むかと思いきや、難航している。文明圏のブロック化が進み、境界線で衝突するようになるというシナリオを唱えた人物がいて、怪訝に思っていたが、現実にはそのようになってしまっている。なかなか次の進化に進めない。ホモ・サピエンスは太古に狩猟社会の小集団から、農耕社会の大集団へと移り、古代には都市や国家をつくるに至り、中世、近世、近代と、次第により巧妙な社会組織化を覚えてきただ、それは単純に言えばより大きな集団へというプロセスだった。最終的にはホモ・サピエンスは地球共同体というひとつの巨大な社会へ至ることになるはずであり、そのような社会をまとめる社会システムを考案することになる。グローバリゼーションがそのプロセスの最終段階と想定される。その完成後には、ホモ・サピエンス以外の生命体との共生という課題が待っているだろう。

 ルネサンス期以来の人間的尊厳、フランス革命アメリカ合衆国独立以来の民主主義的な理性社会という価値観は、それがグローバルに実現することで到達点を迎えるとして、そこに、少なくとも地球上では核兵器など必要なくなるはずである。被爆都市の役割はそこに向かって進化の方向付けを支援することである。広島、長崎はもはや日本の一都市という立場にはなく、世界の聖地都市として、地球共同体を相手にする。国境線で、あるいは文明圏ブロック間で争いが起こり、核兵器がチラついた時には被爆都市がイエローカードなりレッドカードなりを掲げることになる。広島、長崎の知名度はすでに十分にグローバル化しており、その効力は今は十分ではないかもしれないが、一定程度はあろうし、より高いものにしていかなければならない。

 核兵器に限らず、先端科学が生み出すさまざまの知恵や技術はつねに悪魔的兵器に転じる可能性がある。ホモ・サピエンス以外の動物、植物などの生命体との共生は、生命体とその生態系全体の尊厳という価値観による文明づくりへと進むことになるが、そこにつねに技術革新が起こり、新しい先端科学が生み出されることになり、広島、長崎という先端科学悪用という失敗例は、永くホモ・サピエンスへの警鐘となりつづけるだろう。その光景は殉教者への巡礼を通して人々の倫理意識を結束させて争いのない共同体を形成してきた中世型宗教の構造を連想させる。人間の脳神経網にはそのような歴史的な共同体形成の能力の記憶が、文化的遺伝子となって内在している。

 

⑨人間的尊厳の始まり

 今日の民主主義社会の常識で言えば、城下町は武士階級が支配した階級社会であり、また城主の独裁体制となっていて、否定すべきものである。城好きが多いとしてもそれはおおかた、趣味の対象に過ぎず、かつての封建社会を好んでいるからではない。天守閣を復元しようといった運動が地域に起こったりするが、せいぜい民主的な地域共同体の象徴以上のものではない。かつてのように砦、軍事施設としての機能を復活させようというのではない。江戸時代の藩はルネサンスフィレンツェのような都市国家と比べてもよいかもしれず、君主のもとに、領域内で地域共同体を形づくっていて、そのような地域共同体の内での連帯感情は現代社会にある程度必要とされている。

 安土桃山時代の新型都市について注目すべきは、それまでの中世型宗教社会が影を薄くし、個人としての人間の才能や価値が高められていることである。信長は比叡山を焼き討ちにしてひどい人物だったとも言われるが、彼は安土城を造った際に摠見寺を中腹に設け、あたかも自らを神として崇めさせようとしたとされる。そのことは人々の信仰を結集させて社会の安定を図る機能を持っていた仏教寺院を排除し、人間宗教と言うべき個人崇拝型の集団へと、新しい社会構造を変革させようとしたとも解釈できる。

 ヨーロッパにおいてもルネサンス時代には中世型宗教社会を否定し、人間復興と呼ばれる人間中心主義の社会構造への転換がなされていて、安土桃山時代を日本のルネサンスと見てもよい一面もある。絵画などの芸術やその他の文化面で、日本の固有性のために簡単に比較できないものの、奥底には通底するものがある。これは単なる相似というのではなく、人新世の進化過程というものがある着実な段階的な進化を行っていたことをほのめかしている。16世紀は大航海時代のただ中にあって、キリスト教の伝来、普及を含めてヨーロッパ型の心性は日本列島に浸透してきていたであろうから、このようなルネサンスの人間中心主義は見えないかたちで日本社会に浸透してきていたと想像したい。信長も、また黒田孝高キリスト教に強い関心を示していたことが知られている。

 人間の脳は、言葉による明示的な情報処理の方が目立ちがちであるが、むしろ言葉にならない膨大な情報処理を行っている。文化移転の実態を観察するのに、この隠れた脳の働きに注目しておかなければならないが、それはなかなか捉えにくい。現代の日本人が世界の先端の芸術文化に参画し、成果を上げていることの理由に、ルネサンス的な人間中心主義に似たものを日本人が身につけているということを私は感じている。芸術は個人の才能が生み出すものだが、中世型宗教社会では個人は自己抑制を強いられていたが、ルネサンスはそれを解き、個人の才能が自由に展開させてよいものとした。それは人類進化の一歩であって、それをできていない社会は近代の民主主義を実現できずにいる。

 ウクライナへのロシアの侵攻は改めて民主主義国家陣営と独裁国家陣営の対立という世界構造を露見させているが、後者は人間中心主義、つまり個々に人間への尊厳を第一とする社会になれていない、ルネサンスの進化という段階を踏まなかったか、あるいはそれ見失っているためのように私には見える。G7とは人間的尊厳をもとにする民主主義社会への進化を果たしてきた国家群である。ただし、日本やドイツは20世紀前半に大きな迷い道にはまっていたが、なんとか克服してきている。安土桃山時代のひとつの進化、あるいは社会革命は、江戸時代に軍事優先社会だったために独裁体制に陥ったが、脱中世は果たしていた。明治維新の近代理性の革命はもう一段の進化だったが、またしても軍事優先の独裁体制に陥った。しかし人間的尊厳や理性的社会という進化的価値は紆余曲折する長い歴史を通して日本に根付いてきている。

 少なくとも広島でのG7サミットは、個々の政策協議だけでなく、これまで人類の進化がどのように方向付けられてきたかを確認するものであってほしい。被爆地広島はさらにもっと先への人類進化、生命全般への尊厳をもとに地球社会が一体化した姿を目指すことを願っている。