様式は進化する

 ミケランジェロはなぜ、盛期ルネサンスマニエリスム、初期バロックと変遷できたのか。一定のスタイルに留まるだけでもよかったはずなのに。

 そもそも様式はなぜ変遷しなければならないのか。ヴィンケルマンはミケランジェロバロック・スタイルを批判するが、あのミケランジェロが批判されることになるとは。新古典主義バロック批判の上に築かれたのであり、一応は納得しなければならない。

 大きく見れば、それが人類に文化的な進化なのかもしれない。人類は未来により優れた世界を期待しているようだ。築かれた文化はすぐさま、より優れた文化形成の欲求のもとに過去へと送られるようだ。

 脳科学によると、海馬に形成された記憶は、一次の短期記憶のまま捨てられるか、あるいは二次の長期記憶に送られ、脳の各所に分散して記憶となり、参照される。ある天才が試みた新しい造形は、意義あるものであれば長期記憶へと送られ、一定の様式として定着する。次世代はその記憶された様式を土台にして、より新鮮な造形を求めて新しい試みをなす。記憶された様式はステレオタイプに過ぎず、もはや新鮮で、生命感のある表現となりえない。たとえいかに偉大な様式であろうとも。新しい一次記憶と、保存された二次記憶の間に葛藤が起こることで、時代はより新しい段階を迎える。様式はつねに進化する運命にある。

 未来へと急ぐミケランジェロにとっては、自らの二次記憶さえ不満の対象となったのだろう。一次記憶となった、新しく見出した造形感覚が、二次記憶に送られる。海馬から全脳のニューロン網へと拡散する。エスタブリッシュされた成果でちやほやされて悦に入り、権力となるのを欲するような次元の人物ではなかったのがミケランジェロだったのだ。

 様式はいわば生き物なのだ。ただ、単に生きているというのではなく、人間という生命体の生理現象としての拘束からは脱しきれないのだろう。盛期ルネサンスマニエリスム、初期バロックという変遷過程は、方向なき進化とは見えない。そこにはルネサンス期に限らない普遍的な様式変遷の法則と方向性が垣間見える。ミケランジェロの歩んだ道は彼だけの好き勝手なものではなく、見えない意思のようなものに操られていたというべきである。それは集団心理のもたらした現象だったのか、あるいは遺伝子レベルに書き刻まれた生理現象だったのか。生命体の生理現象から社会の心理現象へ、という命令をミケランジェロは無意識の意識の中で気づいていたのだろう。

 ここの論理を、新しい科学にしたいものだ。

 

ペーター・ベーレンスの新古典主義を脳科学から見直す

  脳科学によると、脳のある場所で「輪郭」を認識しているようだ。

 ヴィンケルマンの言う「輪郭」が思い出される。輪郭はデッサンで重要なものである。ヴィンケルマンはギリシャ彫刻にそれを見た。白い大理石の彫刻はモノトーンの世界である。輪郭はモノトーンの世界でこそ力を発揮する。色彩を認識するスポットと輪郭を認識するスポットは異なる。

 ヴィンケルマンは色彩の世界を無視し、モノトーンの世界で論じた。彼には色彩を認識するスポットがひ弱だったのだろうか。あるいは色彩認識スポットないし活動を活性化させないという前頭前野からの司令があったのか。新古典主義はそのような脳の構えの上に成り立っている。

 ベーレンスはなぜアール・ヌーヴォーの画家から新古典主義の建築家に転じたのか。自由曲線の輪郭と色彩豊かな表現の世界から、モノトーンで厳格な水平・垂直線の構成に転じたのか。謎と思ってきた。あえて自由を捨てて規律に没入するのである。脳科学の新しい理論がそれに答えを与えてくれそうである。エリック・カンデルの「還元主義(リダクショニズム)」の論がかかわりそうである。

 後頭葉にある視覚野は多様な形態認識の部位に分かれているそうだ。境界線を認識する部位もあれば、色彩は3原色の認識が別の部位でなされている。カンデルは19世紀末から20世紀初頭における印象派、表現派、立体派等の近代運動の絵画を、そのような脳の各部位との対応で、要素に還元するという行為をなしていたのだと唱えている。この時期のモダニズムの運動は、写真技術に追われた画家たちが開拓した新しい表現世界だったという。

 ベーレンスの転向を同様に理解すれば、納得できる。様式建築からアール・ヌーヴォーへ、そして新古典主義的な還元を経て、さらに表現主義へ、あるいは機能主義へという彼の道行きは、この論理を使って解き明かせるか。カンデルはクリムトのセセッション運動を分析しているが、この論はヨーロッパ規模のアール・ヌーヴォー運動に敷衍できそうであり、ベーレンスの解釈につなげうる。そうであれば、矩形の輪郭を際立たせ、色彩を排した白黒の建築形態を用いるインターナショナル・スタイルへと至る機能主義の流れも、脳における要素還元主義の成果と見ることができるか。機能主義とは、働きを重視することから形が中性化、単純化したと理解されてきたが、まずは形態上の還元主義があり、その上に働きがあったのだと捉え直すこともできそうである。

 モダニズムの建築史を脳科学の視点から整理し直す必要が出てきた。

 

神の進化過程

 脳科学の読書からひらめくことが多々ある。

 脳は進化してきた。爬虫類、哺乳類、人間へと。脳幹から大脳辺縁系へ、そして大脳皮質へ。それはコンピューターの発達過程にも似ているという。モデュールから相互作用へ、PCネットワークからWWWへ。そのような進化過程は人が脳を使う使い方の進化過程にも通じないだろうか。特に神観念の進化過程へ。

 神秘体験は側頭葉を刺激すると現象するという。神を意識できたとして、人間はそれを大脳皮質、前頭前野で解釈しようとしてきた。文明の進化過程は神の捉え方に変化を続けてきたのだろう。

 古代のアポロ、ゼウス等々の神々は、いわばモデュール化させられた神々と理解しよう。それぞれの神には超自然的な能力のほかに、まるで人格のようなものが規定される。神々は互いに闘ったり融和したりする。

 中世の一神教では神は目に見えない世界にあって超越的な力を持っている。しかしその性格が一つに規定されることはない。いわばモデュール化した神々は絶対性を失い、相対化され、使徒ら聖人たちの相互作用を介して超越神の存在が感得される。

 近世には人間中心の時代が訪れるが、神が消えたわけではなかった。聖人たち、彼らがもたらした儀式は無効化されたが、個々人が神と直結した。人々の脳が描く仮想のネットワークの上に神は君臨した。

 さすれば近代は? 科学の時代は自然現象の中に絶対的な真理を想定することとなったが、それが神の新しい姿だった。日々、科学は進歩するが、それは人が神の本当の姿を知ろうとする営みである。幻は恐れるものでも、祈るものでも、称賛するものでもなくなり、問いかけるものとなった。アニミズムとは違うものの、同じく自然界のすべてに神を見る、新しい自然崇拝の形式がそこに生まれた。自然を理解し、自然に手を加える人間の内にも外にも神がいることになり、もはや一々、神がどうのこうのということの意味はなくなる。

 もはや神はいないのか? いや、いるのだが、変化してきた神というこれまでの観念では捉えきれないのだ。現代の神がどのようなものか、この時代を生きている人間には言葉に出来ないだけである。人間の進化はまだまだ続くので、さらに神パラダイムは進化するはずであり、オープンエンドであることも忘れてはならない。

 そのような神の進化過程をベースに、あらゆる人間の歴史を解釈し直したいと思う。

 

ピークシフトの様式論

 ラマチャンドランの『脳のなかの天使』は示唆するものが多い。彼は人の心理、脳の働きとして「ピークシフト」という言葉を提示する。正方形と縦に長い長方形を比べると、正方形は安定、長方形は不安定。しかし長方形を好み始めると、縦にどんどん高くなっていくという。長方形はロマネスクとすれば、ロマネスクからはゴシックが続くということが理解できる。ピークシフトの論に則れば、縦長の半円アーチ窓はさらに高くなり、尖頭アーチの窓に移行することが理解できる。後期にかけてゴシックのアーチはさらに尖り、複雑な垂直性表現へと登り詰める。

 ルネサンスの正方形内接円はマニエリスム(後期ルネサンス)で楕円へ移行する。それはさらにバロックで反転しつつ湾曲する楕円形プランに移行し、複雑化する。これもまたマニエリスムからピークシフトが始まり、それが次第に高揚していく過程と理解できる。

 脳科学として、ピークシフトとは脳地図のどこの部分がどのような活動をすることになるのか、明かしてくれればありがたい。建築様式がどのような脳内の過程に対応するのかわかれば、美術史の書き方が大きく変わるだろう。古い哲学は脳内の作用として書き換えられるのだろう。そしてそれはコンピューターのプログラムに変換されることになる。AIはいずれ芸術家に取って代わるのか。