⑫大航海時代の影

 『芸州広島城町割之図』でもうひとつ目立つことは、城下町南部を南北に走り、海へと続く三本の堀である。これらは海からの舟運のために設けられたと考えられ、いわば運河都市の様相をなす。新市街を築く際には排水計画が必要であることはこの時代には知られており、もちろん洪水も想定した上での排水路という性格も伴っただろうが、広島城下町の経過を見ても、これらは重要な舟運路となっていたことがわかる。

 16世紀という時代、ヨーロッパではネーデルランド、つまり今のオランダ、ベルギーを合わせた地域が経済的に栄え、北方ルネサンス文化の中心となったことで知られる。ブリュッヘなど、今のベルギーに始まった経済発展は、広大な低地での運河がその要となっていて、都市拡張の際には必ず運河網を伴う運河都市とする都市計画手法が確立された。それは今のオランダ地域へと経済中心が移動する際に、多数の運河都市を形づくったのであり、その最も栄えた都市がアムステルダムである。ブリュッヘの学者だったシモン・ステヴィンが理論化したとされる格子状街路網、運河網を備える長方形の理想都市案が文献で残されているが、その考え方はオランダ人が築いた植民都市バタヴィアに応用され、その遺構が今もインドネシアジャカルタに残る。

 実は『芸州広島城町割之図』の三本の堀を含む格子状の街区プランは、ステヴィンの理想都市計画図、またバタヴィアの都市プランが示す運河都市の構成と驚くほど似ている。これらはほぼ同時代に描かれ、また建設されているため、何らかの関連があったのではないかと疑われるが、何の物的証拠もない。たしかに京都をモデルとしていることはほぼ確かだが、三本の運河堀はそれとは全く関わらず、異質な要素である。ヨーロッパから来たキリスト教徒たちがさまざまの技術や知識をも日本にもたらしたが、当時の日本にはカトリックポルトガル人宣教師たちであり、プロテスタント系のネーデルランド人はまだ来ていないはずである。オランダ船リーフデ号が偶然に難破してオランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムスが日本に上陸する直前の話である。

 謎はあるが、何らかの道筋で運河都市の植民地建設の技術が信長、秀吉の周辺に伝わっていたのではないかと妄想するしかない。宣教師たちを優遇した信長は岐阜の山城から琵琶湖岸の安土に降りてきて安土城と城下町を築いたが、それは堺のある大阪湾から淀川、宇治川を経由して舟運が可能であり、大航海時代世界システムに参入しようというおぼろげな意思からだったろう。長浜の地を与えられた秀吉は海城を築いて同じく琵琶湖の舟運を城下町に取り込んだ。やがて大坂を築き始める時にはその傾向は頂点に達した。そしてその延長上に、広島に理想都市モデルが試みられたのだった。広島城下町の建設には大航海時代の影が落ちていたことになる。海洋でもスペイン、ポルトガルに取って代わろうとするネーデルランドは、当時、カトリック離れして新しい発想を持つ先端の哲学者、科学者の活躍する地になっていたのであり、その知識や技術が宣教師たちに浸透していたと考えてもよいかもしれない。

 広島の三本の運河堀は、別項目でも述べたように、今の鯉城通りとなる西塔川が中央に位置し、ここには雁木や石段が多数あって経済活動の要所となっていた。東側の運河堀の平田屋川は当初は武家屋敷地を貫くものとして計画され、北は城郭の外堀ともなる八丁堀となっていたが、後に都市構造が変わって西国街道が東西に走るようになると、町人地が広がってやはり経済活動に寄与するものとなる。これは後に埋め立てられて、今の並木通りになる。そして西側の運河堀は本川と呼ばれるようになり、今は平和記念公園の西岸をなし、ほとんどの人たちは自然の川筋と思っているようだが、『芸州広島城町割之図』から知られるように実は人工的な運河堀だったようである。それが証拠に両岸には荷揚げ用に河岸(かし)が設けられ、道路になっていた。

 ともあれ、明確な物証があるわけではないが、これら三本の運河堀が大航海時代の新しい舟運交通の時代に対応するものだったのではないかという説をここで挙げておく。瀬戸内海に南蛮船が入ってきてはいなかったともされているが、物流の質は大きく変化してきていただろう。今日はインターネットが世界のコミュニケーションの網をなして地球を一体化させているが、グローバリゼーションの発端は16世紀頃の大航海時代にあった。最近、大航海時代の東アジアの海岸沿いにおいて、日本人もその政治情勢に関わっていたらしいことが知られるようになってきており、鎖国以前には日本もまた大航海時代に関わっていたようであり、1600年前後の日本における新都市ブームをそのような視点で読み直すべきと思われる。ちなみにこの後、日本各地の近世城下町の多くは海辺に建設されており、さまざまのかたちで船着き場や運河堀を備えるようになる。