⑧桃山時代の理想都市像としての広島城下町

 自治体としての広島市核兵器廃絶による世界平和を実現することを目標としていて、そのためにさまざまの都市政策を工夫してきている。それは一種の21世紀的な理想都市構想である。その基盤にある生命尊厳という感情は、さまざまの生命体が集まって生態系をなしている姿を人間の手でコントロールする庭園都市の景観を支えている。

 そもそも都市広島が始まった桃山時代、広島はいわば当時の理想都市構想として描かれていた。日本では城下町という言葉で通っているために、それは城を中心としてその足下に築かれた、それに付属する都市として共通観念になっているのだが、人新世の長い歴史の上に位置付けるならば、それはむしろ都市を主体とし、城はその付属物だったとしてもよい。今日、城跡は歴史的な遺跡でしかなく、都市はそれなくして成り立っている。

 桃山時代の都市観とは、秀吉の築いた新都市大坂を考えればよいのだが、実は広島もひとつのモデルを提示した。広島城本丸はよく知られているように、秀吉が京都に築いた聚楽第のコピーである。秀吉はすでに大坂城下町を建設してきていたが、公家となり、また関白に就任すると、京都の、かつての平安京内裏の近くに豪壮な城郭聚楽第を建設した。それは条坊制の格子状街路網からはずれるものの、その座標軸に沿わせて矩形で縁取り、本丸もまた矩形をもとにしていた。後に秀吉は小さくなった京都の市街を守るように御土居を築き、京都を偏心型の城下町風とする。

 秀吉は甥の秀次に家督とともに聚楽第を譲ったが、その後、彼を謀反人として追放し、聚楽第を完全に破壊したので、その姿は京都市街から消えてしまう。この時代の理想的な城郭像はかろうじて広島城に残されるところとなった。

 城下町広島は矩形の城郭に合わせて、おおよそ格子状になった。それは先述した毛利輝元のもとの城下町都市計画図に見て取れる。それが京都の条坊制市街をモデルにしていたことは、大手町筋に60間(条坊制40丈に相当)の町割りがなされ、一部に正方形街区が形づくられていたことからわかる。つまり聚楽第と京都の市街景観が広島に適用されたのであり、都市広島の始まりは整然とした京都市街がモデルだったことになる。ただ、広島には町中に海からの舟運を確保すべく3本の運河が計画され、またデルタの地形や固有の社会経済的な事情からさまざまの変形が加えられ、京都のような完全な格子状の町並みではなく終わる。

 上述の都市計画図は当時の水準から考えてそれなりに見事なデザインとなっている。それは山奥の戦国城下町吉田しか知らない毛利家とその家臣たちが独自で考え出したとはとうてい言えないので、秀吉周辺の知恵者が関わっていたとするのが自然である。大坂の建設は黒田孝高(官兵衛、如水)が仕切ったとされ、また広島城下町建設途上に彼がチェックしたという記録があり、その筋が考えられる。今日、新都市デザインは建築家ないし都市計画家の仕事であり、その専門的な知識と技術がなければ計画案を作成できるものではない。上述の都市計画図の見事な統一感から考えて同様の人物がいたはずであるが、この時代にそういった都市デザイナーの名が記されることはほぼなく、せいぜい城主の名が建設者として残されるだけである。

 広島の場合、大坂、京都をモデルとし、広島デルタの地理や中国地方の雄となった毛利家の政治経済事情が考慮され、つまり中央の武将の理論家と地方の毛利家幹部たちが協議しつつ、かの都市計画図に至ったものと想像される。黒田孝高は秀吉を毛利家の間に立つ仲介者であり続けたともされ、軍師と言われるだけでない、知識人、技術者、あるいは都市デザイナーとしての彼の存在がおぼろげに見て取れる。ちなみに黒田孝高は後に中津城下町を建設するが、その海辺の都市計画にはある程度は広島に共通する部分も感じられる。

 16世紀と言えばイタリア・ルネサンスのもとでレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロが活躍した時代である。そしてスケッチ力をもとに多彩な建築家たちが理想都市像を描いた。15世紀のアントニオ・フィラレーテはミラノで円形の幾何学的な理想都市像を描き残したが、それはスフォルツァ家のもとの理想都市像であった。ヨーロッパには古代から民主主義の伝統があり、ルネサンス時代には人体比例図に象徴されるような人間礼賛の思潮があって、日本とは比べようがないように見えるが、君主を中心とする理想都市像という点ではある程度は似た側面があることに注目しておきたい。

 都市広島もまたいわば君主を中心とする理想都市計画ではなかったか。そして中国地方を統括する未来の都市国家像を想いつつ、その居城都市として白紙のデルタに大胆に描かれた未曾有の理想都市像ではなかったか。そこに秀吉のもとの先端技術と知恵が反映していたと見るべきではないか。