⑬理想主義から機能主義へ

 理想は現実を無視して、あるいは現実認識が不足のままに描かれる。広島の理想都市計画は、地面に残る痕跡から、確かに実施に移されたが、さまざまの変化を伴い、理想像が完全に定着するにはいたらなかった。理想都市像ははかない夢ではあったが、だからこそ理想主義の時代が鮮やかに浮き彫りとなる。

 大手町筋の1〜5丁目までの均等な正方形群の区画割は、そもそも西側の元安川で削られた土地柄からして、整然と実現するものではなかった。都市計画者がはたしてどのような考えだったのか、訝しいところである。また、現鯉城通りにあった西塔川は、正方形の街区群が描かれた後に掘られたものと考えられ、大手町筋の東側の街区は正方形群との東側を削るようにして水路が掘られ、街区は東西幅が少し短くなり、長方形になったと考えられる。いずれにせよ、東西に5区画分くらいは正方形街区が復元できる。

 そして例の毛利期の都市計画図に見る限り、元安川を越えて西側にも碁盤目の街区網が敷かれており、本川を越えて西へと、寸法は一律にならなかったものの、おおよそ直交する街区網が実現する。ただ、その後の江戸時代初期の城下絵図では、元安川本川に挟まれた中島地区のゾーン、すなわち今の平和記念公園のところには、直交する街路網とは大きく異なる街路網となる。なぜ理想像はここに実現しなかったのか。

 その理由は文章記録もないのでわからない。ただ都市計画、建築の実状を想像しつつ、ある推測ができる。私はこの地区が、大規模な新都市建設事業のための一種の準備作業場として確保されたのではないかと考えている。つまり大量の木材などの建築材料が集められ、建築資材として加工される場所が必要だったはずである。まずは本川が建設用の資材運送のために掘られ、特に本丸周辺で求められた大型石材を遠くから運ぶために水深が確保されなくてはならなかった。それらの事情で本川は予定より幅広に、かつ直交街路網からはズレて斜めになり、整然とした格子状の都市空間を崩した。また作業場として確保されたために中島地区は街区形成がしばらく先送りとなった。ちなみに中島地区には文字通り材木町、木挽町といった地名が残ることとなる。

 そして城下町がある程度できあがり、中島地区に街路網を敷こうとする頃には、どうやら理想主義は早くも崩れてきていた。城下町より北にあった西国街道が城郭の南に移され、城下町中心部を東西に貫く幹線街路とすることになり、東部の東西道と西部の東西道は軸がズレていて、それを繋ぐようにして中島地区に幹線街路が敷かれると、それは斜めに走る歪な街路網となる。そして中島地区には幅を半分ほどにした小型の街区が形成され、この地区だけの碁盤目街路網となり、他の地区とは姿が異なるものとなる。そして中島地区の西国街道は、今の平和記念公園レストハウスのところで鍵形に屈曲していたが、これは江戸時代初期に流行した、あえて見通しを遮る道路計画手法だった。つまり理想都市の形式的な理想主義は、軍事的な機能主義へと転換してきていたのだった。

 京都においても古代の幅100m余りの正方形街区では、街区中央が空いてしまい、寺や会所となった。表の町家群は奥行きが30mほどもあれば十分であり、広島でも城下町建設が始まってほどなく、その問題に気がつき、よりコンパクトな町人地の町並みへと考えが変わったと推測できるのである。

 形式の完全性にこだわる理想主義は現実の前にもろいわけだが、しかしそれだからこそ理想主義というものの存在理由がある。未知の理想社会を脳内で希望し、それを理念化し、抽象的な幾何学という手段で未来都市像を描いたという人為的な営みこそ、人間文化である。未知の理想像を描くのは前頭葉の計画能力であり、それは同じく前頭葉の執行能力を通して物理的な世界に形を与えるが、そこに細かな調整作業が伴うわけである。人間はこのような未来を描くこととその実現という作業を何度も積み重ね、文化の進化を果たしてきた。こうして16世紀末期の日本は大きな転機となり、その後の近世城下町の時代へと続くのであるが、広島に見る理想都市はその変革期を象徴的に表している。ただ今の日本人にもそのような自覚はほぼなく、安土桃山時代の軍事的な武勇伝や、街づくりでなく城づくりばかりに目が向けられていることが悔やまれる。