⑪広島城下町の形態構造

 桃山時代広島城下町計画図『芸州広島城町割之図』では、内堀で囲われた本丸が中心となり、中堀、外堀と三重の堀が巡り、上級武士が階層化して配置された。それが都市の北半の中央を占め、さらに中級、下級の武士が東西と南に配置された。南半は中央軸線で東西に分けられ、下京に相当する東側が武士地区、上京に相当する西側が町人地区となった。中央軸線はまるで京都の朱雀大路のように、二の丸の南門から南へ一直線に走るが、外堀から南へは堀(西塔川)が添えられ、海へと続いた。それは海からの舟運による経済活動を想定したものであり、荷揚げ場として両側に道が敷かれていたが、西側は町人地に続くものの、東側はほぼ寺社の用地となっていて、非対称だった。堀は近代になって埋め立てられ、路面電車通りとなり、今日の都心軸である鯉城通りとなって、むしろ朱雀大路らしく都心軸となった。全般に見て、広島城下町が京都をモデルにしていたことがそこにもうかがえる。

 この図には明示されていないが、町人地としてゾーニングされた市街地南西部の中心をなすように、南北軸が定められ、本町、後に大手町と呼ばれる。ここは60間(あるいは40丈)、すなわち約110mで均一に区切られて、1〜5丁目をなした。ただしこの南北道の西には元安川が迫り、町屋敷の並ぶ街区の裏手が削られたかのようになってしまったが、北端の1丁目東側には正確な正方形が残り、ここでも条坊制の京都をモデルにしたことがうかがえる。

 実はこの大手町筋の南北軸線を北に延長すれば天守閣に突き当たり、逆に天守閣の最上階からは、上級武家屋敷が挟まるものの南に大手町筋を見通せるわけであり、ヴィスタ(眺望)軸として計画されていたことがわかる。他の城下町でもヴィスタ軸をなす道が知られているところがあり、これは桃山時代の日本における都市デザイン手法となっていて、やはり広島城下町計画が中央の専門家が関わった当時の理想都市計画だったことを示唆する。被爆で建築物はほぼ壊滅したが、大手町筋の街路はほぼ現存しているものの、商業地の中心街は堀を埋め立てた広幅員の鯉城通りに移ってしまったため、今では隠れた存在になり、広島市民もほとんどがかつての中心街路大手町筋の栄光を知らずにいる。

 京都や大坂とちがって全くの新都市だったことから、奇しくも広島に桃山時代の理想都市モデルがより純粋に表れていた。そのことも広島市民のみならず、日本の研究者たちも気づいていないようである。ヨーロッパのルネサンスに似た都市の時代が日本にもあったことを再確認しなければ、なぜ今日、日本人の芸術家、建築家たちが世界の先端に与することができているか、説明がつかないと、私は思っている。ダビンチやミケランジェロといった芸術家・建築家の名が周知されているのに比べ、日本では建築家の名は全く上がらず、せいぜい城大工組織の家系名しか知られていないのは、中世から近世への進化ということを自ら認識できていなかったからである。個人の才能(ゲニウス)が脚光を浴び、人間礼賛が起こったヨーロッパに対し、日本はなお個人は組織に埋もれていて、中世からの脱皮をし損ね、江戸時代封建社会へと戻ってしまった。

 『芸州広島城町割之図』に理想都市モデルが表れていると言っても、相当に説明を加えなければ、すぐには納得しづらいだろう。戦国時代は激しい権力闘争、領土争いの時代であり、理想都市文化を知識人集団が論じあうような情勢にはなかったし、広島に領主の居城都市を築こうとした際には城郭と武士集団の軍営地を築く方に心が支配されていたことだろう。戦国時代までは山城と市場が離れていたが、それが合体するのが近世城下町であり、そこに領主の居城を含む都市というものが出現した。聚楽第という、富を具現させた芸術的な居城が現れ、その延長上に市場、つまり町人地を含む都市のデザインというものが成り立った。居城なしの都市という時代、純粋な都市デザインの時代はまだまだ先のことであり、そこは留保しなければならない。

 広島城下町についても、その全体的な輪郭は確たるものではない。『芸州広島城町割之図』を見ても都市の輪郭はあいまいであり、くねった川筋で縁取られたり、砂地に街路の先端が消えてゆくだけであったりである。秀吉の御土居で囲われた京都もまた輪郭はあいまいであり、ヨーロッパの理想都市のように正多角形の明快な幾何学形態は日本には無縁だった。しかし、他方で都市とその周辺景観が一体となる様は、有機的なネットワーク・システムとしての今日のエコシティという視点からは、むしろ望ましいものと言える。日本の造園思想を背景として、自然と人工を画然と分かつのでなく、都市を自然の生態系に寄生させるようなやり方が、消極的ながら庭園都市の姿を成立させたわけである。同図には川筋の有機的曲線が描かれ、周囲に山や島々が風景画のように描き込まれているが、それらが市街地の幾何学的な街路網と対立しつつ融合される様に、この時代の都市思想と呼ぶべきものが垣間見られる。