⑨人間的尊厳の始まり

 今日の民主主義社会の常識で言えば、城下町は武士階級が支配した階級社会であり、また城主の独裁体制となっていて、否定すべきものである。城好きが多いとしてもそれはおおかた、趣味の対象に過ぎず、かつての封建社会を好んでいるからではない。天守閣を復元しようといった運動が地域に起こったりするが、せいぜい民主的な地域共同体の象徴以上のものではない。かつてのように砦、軍事施設としての機能を復活させようというのではない。江戸時代の藩はルネサンスフィレンツェのような都市国家と比べてもよいかもしれず、君主のもとに、領域内で地域共同体を形づくっていて、そのような地域共同体の内での連帯感情は現代社会にある程度必要とされている。

 安土桃山時代の新型都市について注目すべきは、それまでの中世型宗教社会が影を薄くし、個人としての人間の才能や価値が高められていることである。信長は比叡山を焼き討ちにしてひどい人物だったとも言われるが、彼は安土城を造った際に摠見寺を中腹に設け、あたかも自らを神として崇めさせようとしたとされる。そのことは人々の信仰を結集させて社会の安定を図る機能を持っていた仏教寺院を排除し、人間宗教と言うべき個人崇拝型の集団へと、新しい社会構造を変革させようとしたとも解釈できる。

 ヨーロッパにおいてもルネサンス時代には中世型宗教社会を否定し、人間復興と呼ばれる人間中心主義の社会構造への転換がなされていて、安土桃山時代を日本のルネサンスと見てもよい一面もある。絵画などの芸術やその他の文化面で、日本の固有性のために簡単に比較できないものの、奥底には通底するものがある。これは単なる相似というのではなく、人新世の進化過程というものがある着実な段階的な進化を行っていたことをほのめかしている。16世紀は大航海時代のただ中にあって、キリスト教の伝来、普及を含めてヨーロッパ型の心性は日本列島に浸透してきていたであろうから、このようなルネサンスの人間中心主義は見えないかたちで日本社会に浸透してきていたと想像したい。信長も、また黒田孝高キリスト教に強い関心を示していたことが知られている。

 人間の脳は、言葉による明示的な情報処理の方が目立ちがちであるが、むしろ言葉にならない膨大な情報処理を行っている。文化移転の実態を観察するのに、この隠れた脳の働きに注目しておかなければならないが、それはなかなか捉えにくい。現代の日本人が世界の先端の芸術文化に参画し、成果を上げていることの理由に、ルネサンス的な人間中心主義に似たものを日本人が身につけているということを私は感じている。芸術は個人の才能が生み出すものだが、中世型宗教社会では個人は自己抑制を強いられていたが、ルネサンスはそれを解き、個人の才能が自由に展開させてよいものとした。それは人類進化の一歩であって、それをできていない社会は近代の民主主義を実現できずにいる。

 ウクライナへのロシアの侵攻は改めて民主主義国家陣営と独裁国家陣営の対立という世界構造を露見させているが、後者は人間中心主義、つまり個々に人間への尊厳を第一とする社会になれていない、ルネサンスの進化という段階を踏まなかったか、あるいはそれ見失っているためのように私には見える。G7とは人間的尊厳をもとにする民主主義社会への進化を果たしてきた国家群である。ただし、日本やドイツは20世紀前半に大きな迷い道にはまっていたが、なんとか克服してきている。安土桃山時代のひとつの進化、あるいは社会革命は、江戸時代に軍事優先社会だったために独裁体制に陥ったが、脱中世は果たしていた。明治維新の近代理性の革命はもう一段の進化だったが、またしても軍事優先の独裁体制に陥った。しかし人間的尊厳や理性的社会という進化的価値は紆余曲折する長い歴史を通して日本に根付いてきている。

 少なくとも広島でのG7サミットは、個々の政策協議だけでなく、これまで人類の進化がどのように方向付けられてきたかを確認するものであってほしい。被爆地広島はさらにもっと先への人類進化、生命全般への尊厳をもとに地球社会が一体化した姿を目指すことを願っている。