⑦エコロジカルな都市風景

 戦国時代に中国地方の雄となった毛利元就に拠点は中国山地に位置する郡山城だった。有力な家臣たちはそれぞれの地元に土地と館を持っていた。孫の輝元が秀吉と対峙する頃には、郡山の麓に置かれた居館の周辺に吉田の市場町が発達してきていたと思われる。信長が倒れた後、輝元は仲良くなった秀吉に招かれて大坂、京都を訪れ、おそらく誘われて太田川デルタに当時においては巨大な新都市を建設する決心をする。

 その頃のデルタがどのような光景だったのか、そこに五箇村という土地があったとされるが、その実態はほとんど知られていない。今もそうであるように、デルタはほとんど海抜ゼロメートルの広大な砂地であり、年間水位差が3.6メートルほどあり、かつ豪雨で度々水没する土地にほとんど定住集落はなかっただろう。

 『芸州広島城町割図』と名付けられた絵図が山口県立図書館に保存されていて、そこに毛利輝元のもとでの都市計画構想が見出されるが、格子状の街路網を含む城下町計画図の周辺部が注目される。城下町の北東には二葉山らしきものが立体的に描かれ、山の中腹に寺院らしき大きな屋根の建物が見え、麓に藁葺きらしき小建築群があって、以前からある農村集落らしきものが記されている。また同様に立体的に描かれた東側の比治山の麓、今の京橋川沿いあたりにも寺社らしき大型の屋根が見え、おそらく集落もあったろう。さらに沖には仁保島(黄金山)が描かれているが、ここには漁村があったと知られている。また南西側には江波島、宮島が簡単に描き加えられているが、江波には港と漁村があった。城下町創始以前の風景は、これらの小山、島にかろうじて農漁村が点在するだけで、北を山並みに囲われ、南を海に覆われ、5〜6本の川で分断された広大な砂州だったろう。

 今日、広島をエコロジカルな都市としてデザインしたい考えるとき、このようなほとんど人手が入っていない、自然なデルタの光景を思い起こすべきだろう。エコロジカルな都市とは、見たこともない未来の都市である以上に、都市化する前から持続してきていた有機的なシステムを持続させる都市と考えたい。元宇品の原生林に立つとき、そのような広島デルタを想起し、海、山、緑を含む大きな自然の有機的システムを思い浮かべてほしいものである。

 グランドプリンスホテル広島の展望室からは、南に広島湾の島嶼景観、北に今の広島都心部景観と背景の山並みが見える。G7サミットの首脳には現代と庭園都市というべき風景を見て、訪れる人々が美しいともらす、エコロジカルな現代都市広島に21世紀の理想的な都市モデルをも語り合ってもらいたいものである。被爆から復活し、平和の倫理をどこよりも強く抱く都市が、人だけでなく自然の生命をも大切にする都市観を築いていることを心に刻んでほしいものである。