③宇品港と広島湾の文化景観

 そもそも元宇品地区は広島湾に浮かぶ孤島だった宇品島を道でつないだものであり、今も島の面影を残している。明治になってすぐ、それまで宇品島を中継して小型船から大型船に乗り換えるというまどろっこしい舟運を嘆き、新しい近代的な港を欲した県知事が陸地から2kmもある一直線の築堤をして道路を走らせ、島の手前に波止場を新設する計画を策定した。その大胆な計画は付近の漁民、住民の反対で難航したが、なんとか成功し、近代都市の産業に貢献することとなる。

 幕末期に広島城下町周辺を西の茶碓山から眺めた鳥瞰図風の絵が残されているが、そこにはまだ陸地から遠く離れた宇品島が描き込まれている。そこに二隻の大型船らしきものが見えるが、これは洋船のようである。長州戦争で不穏な時期に、安芸藩は二隻の洋船軍艦を購入したとされ、まさにそれである。それが描かれている場所は宇品島東側の水深が深いところである。明治の築港事業はそこに波止場を築こうとしたのだった。

 今日もそこは外国の豪華客船が時々停泊することのできる船着き場となっていて、平和な海辺の風景をもたらすが、戦前には軍事色の覆われてしまっていた。明治27年日清戦争が勃発した時、今の山陽本線は広島駅が終着点であり、西の方は未着工だった。そのため広島は大陸進出の兵站基地となり、多くの兵士をこの宇品の港から送り出したのだった。明治政府は広島城を陸軍の拠点とし、後の第五師団司令部に発展させていた。他方で呉には海軍の呉鎮守府が置かれ、江田島には海軍兵学校が移ってきて、広島湾は軍船が漂い、陸軍とともに軍国主義下の日本の象徴的な場所のひとつとなっていた。戦後、そのような宇品港の風景は一掃され、ホテルとマリーナのあるアーバンリゾートの平和な海辺に変貌し、G7サミット会場となるに至るのである。この際、軍国主義への反省を思い起こしつつ、民主主義的なグローバル社会への貢献を改めて誓い合いたいものである。

 はるかに歴史を遡れば、平清盛は広島湾西部の厳島厳島神社を築いた。清盛は瀬戸内海航路を整備し、日宋貿易を推進して富を得、太政大臣に上り詰めていた。彼は安芸守に任じられていたとされるが、その頃、安芸国府は今の府中町広島市域内に独立している自治体)にあった。ただし清盛がそこに実際に来ていたというわけではなさそうである。広島湾の東の「音戸ノ瀬戸」は清盛が舟運のために切り開いたとされていて、あるいはここを通って宇品島あたりを経由し、国府に上陸したりし、また西に向かって海岸沿いにまだ小さかった改築前の厳島神社を訪れていたと想像できるのかもしれない。そもそも瀬戸内海航路は広島湾の南を通り過ぎていたとされ、清盛がどうして厳島を見出したのか、音戸ノ瀬戸の言い伝えが起こったのか、不思議な気がするのである。

 清盛が建築した厳島神社は通常の神社スタイルではなく、寝殿造りを参考にしていて住居のにおいがする。それは海辺に向かって篝火を並べるページェントの舞台装置になったとも言われ、わざわざ遠くから天皇を招いたりしていた。今日ではそこは花火大会の名所として名残を止めている。G7サミットとその関連イベントは、平安時代の清盛のおもてなしにつづくものと思ってもよいのかもしれない。