認知建築史学は可能か

 コリン・レンフルー『先史時代と心の進化』に、「認知考古学」という言葉を見つけた。ホモ・サピエンスが獲得した認知力を軸にして考古学を説き直そうとするものである。ちょうど、建築史を脳の発達とそれに伴う文化的な進化という発想で構築し直せないものかと思案していたので、刺激を受け、「認知建築史学」などといった言葉が浮かんだ。

 ネアンデルタール人からホモ・サピエンスの時代に移行して、最も変化したものは、集団形成力だったという。狩猟採集生活をしていたネアンデルタール人には血族を中心にした数十人の小集団までが限界だったが、ホモ・サピエンスは農耕生活を始め、その際に数百人の集団をなし、集落を形成して定住することになる。そこでは、植物を栽培し、一年間管理するといった相当程度の計画を立案し、それを多数が共有する能力が必要だった。

 ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへは、脳の一段階の進化があったとされる。しかしホモ・サピエンスは進化した脳を十分に活用するのにかなりの時間を要したようだ。この、いわゆる農業革命はようやく約一万二千年前になって実現したのだと言う。使いもしないのに、脳は進化を果たしていたというのなら、なぜ進化が起こらなければならなかったのか、不思議だ。ともあれ、農業革命とともに文明が進展し、その後、何種類もの革命が続き、現代文明まで至る過程はそれまでの数十万年の人類史に比べれば急激な発展となった。

 生物学的な脳の進化と、その使い方に依存する認知能力の進化は別物だという。後者は人工的な文化だからである。ホモ・サピエンスは農業革命の後、国家、宗教、科学といったものを次々に生み出してきた。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』も農業革命を始めに取り上げていたが、なるほど脳の進化がすべての始まりだったのだろうか。

 心理学者マーリン・ドナルド著『Origines of the Modern Mind』(和訳はないようだ)は、認知能力の段階的な発達を唱え、①「出来事的」段階、②「模倣的」段階、③「神話的」段階、そして(遅れて唱えたようだが)④「物質的象徴」段階、⑤「理論的」段階、という5段階が提示したという。前者2つが生物的進化にかかる「種形成段階」、それに続くものは文化的進化の「構築段階」とされた。農業革命は④「物質的象徴」段階なのだという。私が興味をもつのもこのあたりである。

 神的なものを覚えたホモ・サピエンスは、それを目に見える何かを物質的象徴として表現しようとし、それは目に見えない脳内活動の言語体系へと進めた。

 集団化することで大規模な企画が可能になり、農業が可能になる。より大規模な集団が定住生活をなすことで、次第により高度の社会管理能力が必要となる。神を想定し、何かで象徴表現する。神々の幻想は神話を伴って保証されるが、そこに言語能力の獲得が裏打ちする。

 農業革命はナトゥーフ文化に始まるという。いわゆるレバント地域、つまりイスラエル、ヨルダン、レバノン、そしてシリア内陸を通ってトルコ国境あたりまで伸びる南北に長い地域である。野生の麦などを採集する生活が、干魃にあって人工栽培へと転換を余儀なくされたのが始まりだった。約一万二千年前のことだったという。

 やや遡る一万三千年前、いまだ狩猟採集生活の段階の時に、これよりやや北のトルコで発見されたギョベクリテペの祭祀施設が誕生したという。円環をなすの石積みに謎のT字形の石板が林立する構造物は、定住しない狩猟採集生活者の小集団の群れが集まって、何かの儀式を行ったのだろうとされている。ホモ・サピエンス史上はじめての本格的な構築物であり、ストーンヘンジなどよりずっと古い。もっとも屋根が架かっていても良さそうな円環状の石壁なのだが、屋根なしだったようであり、建築物とは言えないようだ。まだ情報が少ない謎の遺構だが、例えば柱の系譜を考える際に注目できそうで、ホモ・サピエンス建築史の冒頭に据えてもよいのかも知れない。

 定住農耕生活が始まる前に、すでに狩猟採集者の定住は始まっていたようで、ウクライナでマンモスの骨でつくったドーム型の住居が見つかっている。これはなかなかよく考えて作ってあり、これ以前に他の素朴な材料で簡単なテント状の住居の時代があったのだろう。マンモスの骨の住居はオーラがあって、あるいは祭祀施設ではなかったのか。狩猟採集社会は平等主義の相互扶助社会だったようで、まだ階層化が起こっていなかったから、首長の住居というわけではなかったのだろうが。

 

 定住社会、とりわけ定住農耕社会では所有感覚が生まれ、ヒエラルキーが発生したという。本格的な集落はイェリコで見つかっている。ただ、崩れやすい日干し煉瓦を何度も建て替えてきたので、今、目に見えるものはテルと呼ばれる小山でしかない。そこでの社会構造はどれくらいに解明されているのだろうか。平等主義の相互扶助社会での脳の使い方に興味があるが、階層社会への転換がもたらした認知構造も気になる。それらはどのように建築物なり集落の空間構造に反映していたのだろうか。

 やがて、ピラミッド形の社会はそれを引っ張る頂点に人物を必要とし、強力な首長から王を誕生させる。幻である神と王が繋がることで社会は安定した構造を得る。古代エジプト社会はそのようにして王=神としてのファラオを誕生させた。マスタバ(墳墓)、階段状ピラミッド、正四角錐ピラミッドと、祭祀用の物質的象徴は大規模に、そして芸術化していった。他方で神殿という、壁と柱のシステムである建築物を誕生させた。その前に、ナトゥーフ文化は「肥沃な三日月地帯」をたどってメソポタミアに一大文明を築き、集落は都市へと発展していた。都市革命とも言うようだが、それもひとつの認知革命だったろう。つまり脳の使い方が一段レベルアップしていたはずだ。もっともこれは国家共同体の誕生に伴うものなので、国家革命と言うべきなのかも知れない。

 アテネなどの都市国家群は統一的な国家であるペルシャ国に抵抗して勝利した。この民主主義が全体主義的な国家に勝る進化を遂げた時を都市革命と言うべきなのかも知れない。なぜなら現代のグローバル民主主義は都市連合ネットワークへ向かっており、全体主義的な国家群への退化を克服しようとしており、国家よりも国境線を超えた都市群のあり方が、ある理想モデルとなっていたりするからである。

 ともあれ、建築の進化、都市の進化を認知建築史学として説けるように、これから個別テーマを探しつつ、努力してみようか。

 

 

 

ミケランジェロにもう一度訊こうか

 システィナ礼拝堂を見てから、もう40年以上になる。若い時に感覚だけで感動したミケランジェロの天井画、壁画は、知識を積んだ今見ると、違って見えるのではないかと思う。もう一度見る前にNHKの作成した2010年頃の番組を使って予習をした。

 天井画はミケランジェロが30代半ばの作品。ローマ教皇庁ルネサンスの息吹が入り込んだ時のもの。ユリウス2世のもと、カトリックが殻を破り、開かれた。新約聖書の枠を越え、旧約聖書、そしてギリシャ神話にまで遡及した。間をフィレンツェルネサンスに接近したルネサンス人エジーディオ・ダ・ヴィテルヴォが取り持ったという。人間の原点に還って世界観を問い直した。いわばキリストを神の世界から人間の世界に引き戻し、理想的な精神を再生させようとする。まさにルネサンス。中世に教義と典礼でガンジガラメになった宗教が解きほぐされ、洗い流され、生身の人間を露出させようとする。ルターの宗教改革以前に、教皇庁の中で改革は始まっていたようだ。だからこそミケランジェロの出番もあった。今では対抗宗教改革と訳語が変わったが、確かに改革は起こっていた。

 1527年、ミケランジェロフィレンツェ革命に参画して挫折し、2ヶ月間を地下に潜る。同年にはローマ劫略の大事件があった。ミケランジェロはその後に依頼された最後の審判の壁画で、画風を一変させた。明るいルネサンスの天井画から、暗い、怯えるような壁画へ。ルネサンスからマニエリスムへの変化に相当するか。表の明るさの陰に、裏の暗い心が隠れていた。脱皮した皮のような自画像は象徴的だ。表も裏も見える人間に成長したミケランジェロ

 明るいモダニズム、転機となるマニエリスム。同じ構図が20世紀にもあったことになる。ミケランジェロは盛期ルネサンスから初期バロックまでをひとりで歩み、作風を変転させた。そこには内的な変遷過程があったはずだが、外的要因の働いていたようだ。しかしその変遷にはしっかりとメカニズムが内在しており、ミケランジェロはそれに操られていたと言ってもよい。一種の集団的無意識。ルネサンスを天才の時代とばかりに片付ける傾向があるが、天才の才能を開花させたのも、作風を変えさせたのも、人間社会のある種の生命体リズム。ルネサンスは人間社会のバイオリズムがもたらした、生命感再生のプログラムだったのだろう。行き詰まりの時代には必ずルネサンスが起こるもののようだ。そしてマニエリスムも、バロックも、ということだろう。

 ミケランジェロの芸術脳は人並み外れたものだったろうから、別格だろうが、誰でもがある程度はミケランジェロ的にはなれるはず。感性を解放する手法が見いだせれば。それが難しいのだが。時代と社会と環境に恵まれねばならない。しかし状況に恵まれてもブレークスルーする動物的な「脳」力、そして意思が必要。

 ミケランジェロは孤独だった。ひとりで駆け抜けていった。誤解ややっかみを踏みしだいて。そこには批判精神があったはず。旧来の慣習に従っていれば力は半減したはず。つねに現状を打破する姿勢。だから先頭に立って、自らスタイルを変遷させることができた。つねにイノベーション自己実現でもあったろう。人間の時代。少しは見習わなくてはならない。このガンジガラメの時代に。

 もう一度、システィナ礼拝堂でミケランジェロに耳を傾けよう。

 それにしても教皇庁というものが益々わからなくなってきた。宗教活動に専念してきたのかと思えば、結構、軍事力好き。中世も教皇は有力貴族から選ばれていた。永く十字軍の旗を振った。ルネサンスには礼拝堂を美術館にして信者集め。免罪符を売っては大宮殿、大聖堂建築。しかし、確かに天才ミケランジェロに舞台を提供して開花させた。宗教はメディア論として読み解くべきか。やはり宗教脳の神経機構を研究しなければならない。

 

バウハウスのミニマリズム

 ミニマリズムのデザイン原理はシンプルなので、真似されやすい。まちがった使用には気をつけよう。本来のモダニズムミニマリズムに対し、ファシズム建築のミニマリズム。神話化の危険。

 ヴァルター・グロピウス は本当はデザインがうまくなかったという議論が聞かれる。共同設計者だったアドルフ・マイアーは目立たないが、黒子のように実質的にデザインを行っていて、グロピウスは口だけだったのではという批評もある。確かにマイアーが独自に設計したことが確かなフランクフルトの建築物はピュアな幾何学と大胆な機能処理で刺激的だ。しかしマイアーが去った頃に設計されたデッサウ・バウハウス校舎は誰が主導したのか。幾何学造形としては一歩後退するのかもしれないが、その空間構成におけるブレークスルーは傑出している。

 目に見える形に拘ると、建築というものの意義の半分しか理解できない。形が風景の中で消えていくという、一段高い造形性を理解するには、ステージが一段上がらなければならない。ナチス関係者がミース・ファン・デル・ローエに秋波を送っていた、ミースは回避したという事実。このギャップ。大半のミース信奉者が同じようにミースを理解していないように見える。

 今はミニマリズム全盛の時代。だがそのほとんどがエピゴーネン。スタイルとしてミニマリズムにあまり意味はない。ニュートラルなミニマリズムは誰でもができることだから、フラットな時代には繁茂してよいだろう。グロピウスのミニマリズムは一歩先、ラディカルなミニマリズムだった。形のミニマリズムを超えたところに、独自の機能主義が開拓されていた。その機能主義もエピゴーネン達によって急進性が擦り下ろされてしまった。ル・コルビュジエの急進性とともに。

 革命的なモダニズムミニマリズムとは、つねに還元主義。自己表現を削減してゆく。零度のエクリチュール。手の跡を消すことによって、生の自然が見えてくる。デッサウでは校舎の働きがそのまま見えてきて、アレンジ、つまり合理的な空間構成となった。自己表現、モニュメント性の削除。

 俗物的なミニマリズムはすぐにわかる。なんとなく化粧している。あいまいな情緒性。もちろんそれは人間的、あるいはコミュニケーションを促してくれる。優しさ。愛らしさ。ただ、必要な時には革命的になれるかどうか。彼らはそれを行っていた。そして、そろそろそれが必要な時代に差し掛かっているということ。この豊穣だが行き詰まりの時代、それが必要なのではないか。

 有名な建築家を叔父にもったグロピウス。危ない橋を渡る必要はなかった。にもかかわらずバウハウスをつくって革命に打って出た。デザインを根っこからひっくり返そうとした。視野の広い、賢い人物。単なる造形家ではなかった。時代をつくるアーキテクトだった。それを指して、造形がうまくはなかったとしたり顔の連中には耳を貸かさないほうが良い。

多文化共生を形態と装飾の二重構造で調整

 異文化を受け入れる際には、自前の文化を捨てるわけではなく、また単純に共存させるわけでもない。どうするか。より高い次元に立って、制御することがひとつの解決方法である。高い次元とは、具体的には抽象的な形である。そこに形態と装飾の二分化が起こる。

 脳内ではどのようなことが起こっているのか。装飾の細かい形、色彩、表現性などは、視覚野で個別に処理されるだろう。情報量は多く、処理も手間がかかるだろう。海馬はフル回転するか。全体の輪郭をなす形態の方は、大きな幾何学的な輪郭であり、情報量は少ないから、脳内で複雑な処理は必要ない。たぶん、処理する場所は異なるだろう。

 単純な矩形の白い壁、といったミニマリズムが強い印象を残すのは、情報量は少ないけれども、情報処理を肩透かしされるからだろうか。人は転けたことをよく記憶する。一瞬の時間、鋭い痛み、すべてを忘れてハッとし、驚く。これは脳のどこが活性化しているのだろうか。他方でミニマリズムは気づかずに見過ごすことがある。顕在的な意識では何も起こらないが、それと気づかずに目を通して、脳のどこかが反応しているだろう。ミニマリズムというものを知っている人は気づくかも知れないが、一般人は見落とす。気づけるようになるには訓練が必要だ。

 いずれにせよ、ミニマリズム的な形態美と個別具体的な装飾という二元論ができている。空白が目立つ日本の絵画では、空白という情報量ゼロこそに意味がある。意味の量がないことに意味があるというのは逆説的だが、そのような次元を体得していることに一日の長。印象派の画家達はそこに目をつけた。ライトはそうして日本贔屓になった。

 輸入文化を得意としてきた日本人。他国の価値を貪欲に吸収しながら、巧みに、それを装飾のように切り分けてきた。白いキャンバスを用意し、空白を残し、装飾がない場所を残す。抽象の次元へ逃げ込んで、自らの立場を保持する。

 日本の家庭には縫いぐるみやらキャラクターグッズがあふれる。それらは純洋風でも、純和風でもなく、多国籍折衷、あるいは無国籍化。ここで言う装飾。日本人は装飾好きなのだ。空白を埋めるように次々にグッズが取り込まれる。この日本人は、空白の次元を好む日本人とは違う。かつてブルーノ・タウトは抽象的な伊勢とバロック的な日光を対比させた。いずれも日本人。ここで民族性に拘るのはやめよう。いずれの民族もそれぞれの仕方で両者を併せ持っているから。ただ、我々の振る舞い方を考える手立てとして、このような分析があってよい。

 多文化共生の方法を考えるのに、この抽象形態と装飾アイテムの二元論が役立つだろう。抽象形態は意味性を削除してあり、もはや民族性という意味性も消えて行こうとするもの。受け入れるそれぞれの民族性が出た装飾が、ごった煮になってもよい。抽象形態がしっかりとキャンバスをなしてくれていれば。

フリードリヒ二世の多文化共生と普遍建築

 12世紀末から13世紀中頃にかけて、神聖ローマ皇帝として時代を牽引したフリードリヒ二世の人生はあまりに面白い。中世をルネサンスへ導いたとも言われる。波乱万丈の人生という意味だけでなく、多文化共生というものを考える上でも。

 南イタリアに生まれ、シチリア島パレルモの宮廷で育つ。カトリックのもとに育つが、身近にアフリカから来たイスラム教徒のアラブ人たちが多くいた。いくつかの言語を操り、アラビア語も堪能だったとか。パレルモ王宮はアラブ・ノルマン建築として知られ、スカンジナビアのバイキングにルーツを持つノルマン人がもたらしたロマネスク様式に、アラビア建築様式が混じる。パレルモの町中にいわば折衷様式の宮殿や教会堂が点在し、郊外モンレアーレの大聖堂は西欧カトリック、東欧ビザンチン、そしてイスラムの様式が混じり、見事な折衷様式に目が回りそう。そもそもシチリア島古代ギリシャ人が植民都市をあちこちに建設し、本土を凌ぐ勢力を誇った時代もあり、神殿や劇場などの各種遺跡が残る土地柄。次元が高い。

 皇帝はローマ教皇にせっつかれて十字軍を指揮し、エルサレムへ。都市パレルモイスラム教徒と共存する文化を築いていた。皇帝は戦争などしたくはない。エジプトに拠点をおいていたイスラム王朝と交渉に入る。状況は複雑だったようだが、結局、血を流さずにエルサレムを譲り受けた。キリスト教圏は聖地回復と喜んだかと思いきや、軍事力でイスラム教徒を蹴散らして聖地奪回するのが十字軍の使命だったはずだと教皇はカンカンになる。皇帝はしょっちゅう破門されるが、「カノッサの屈辱」とはいかない。

 シチリア島から南イタリアにかけて、広大な領土を支配するノルマン王朝。おまけに皇帝は南ドイツのシュタウフェン朝から血筋を引き、北と南の考え方が混在。教皇派と皇帝派が対立して小競り合いを繰り返す時代。皇帝は危なっかしいが見事に采配。これは多文化共生のモデルとしてよいだろう。古代ギリシャからローマ、ビザンチンイスラム、また北欧、中欧、地中海が入り混じっている。

 混ざっただけではない。多文化を超越する次元が開拓された。カステル・デル・モンテという城、あるいは宮殿。正八角形の外郭と中庭。見事な幾何学建築文化。あちこちに気づかれた城塞も円形、正方形やら、グリッドやらで、明快な幾何学形。各様式の装飾文化を超越するように、抽象幾何学ルネサンスを先取りしたと言われるが、発想は中世を越え出ていた。

 多文化の、それぞれの伝統文化を見ながら、より高い意識に立てば、抽象化は必然。どの伝統とも共生するには、抽象化、ミニマリズムが容易に見出される。どの伝統にも媚びず、等距離に。一応、キリスト教徒だが、イスラムにもシンパシー。中世型宗教精神を超越したところに、普遍的人間文化が育つ。たしかにルネサンスの先取りだった。ルネサンスは中世キリスト教文化から脱出しようとしていたことを忘れるな。

 加えて、実はこの皇帝の時代、アラブの科学はヨーロッパより先行していた。古代ギリシャの哲学や数学、科学の文献はイスラム教徒によってアラビア語に翻訳されていた。イベリア半島に進出したイスラム教徒の所持した文献は、やがてラテン語等、ヨーロッパの言語に翻訳。いわば、儀式化し、硬直したカトリック文化を土台にし、頭に血がのぼった十字軍などより、イスラム教徒のほうが一段高い精神を持っていたのだ。なるほど、カトリック大聖堂の儀式的な空間デザインより、モスクの合理主義的な空間デザインの方が、明快でわかりやすい。今の右翼的なイスラム原理主義から連想するとまちがい。イスラム建築様式をくせのある反転アーチやマニアックに広がるアラベスク文様と見がちだが、よく見ると見事な幾何学デザイン。偶像や写実的装飾を否定するだけに、普遍的な幾何学構成が育った。賢いフリードリヒ二世はその抽象精神を、建築形態のデザインで自らのものにした。一人の人間として理解し、吸収し、超越する。

 多文化共生は二段構えと考えるべし。コミュニティを形作るには宗教文化が役立ったが、一段上に合理的、科学的、より普遍的な人間文化が開かれていたのだ。

中世都市の有機的であること

 有機的という言葉は幅広く使われてきた。生き物のアナロジーが基本だが、ここでは生物進化に関わるところに絞って考える。

 ドイツ中世都市は12〜13世紀に、領主ないしは司教が新設した新都市に始まるというのが定番。当初は計画都市だった。もっとも中世の計画都市は整然と直線だったり碁盤目だったりしないので、地図上でもすぐにはわからない。それはさておき、新都市も時間とともに拡大する。それは計画的にではないので、あいまいに広がる。そのうちに税金や仕事を押し付けてくる領主や司教と仲違いし始める。そうして自治の要求が始まる。経済的に、また宗教行事にからんで、自治権を主張しにくいだろうが、とにかく自治を獲得できていった。町の有力者による民主主義と呼んで良い参事会がつくられ、参事会館の建物が建って、領主の館や教会堂のほかに、もうひとつの都市景観をかたちづくる芯が生まれる。ラートハウスは市庁舎と訳するが、直訳すると参事会館。

 バンベルクはその過程が都市形態に表れていて面白い。丘上の見事な大聖堂はの足元に始まった市街は、川を超えて次第に広がり、うねる街路網が有機的な都市構造をつくった。そして川向うに生まれた街路風広場が中心となる。市民は市庁舎をつくるが、政治的なかけひきから、市庁舎は小島を介して川にかかる橋の上に置かれた。これは複雑な形となったが、バロックの装飾で目立った。

 そのような整然としない都市構造が、自治獲得の闘争の歴史を記しつつ、かえって生き生きとした都市活動を表現している。有機的ということは生命体のようなものということ。都市が広がる際には、中心街路は田園へと続き、他方で川沿いには漁村集落が育った。多様な要素が絡まりあった複雑系の都市構造は、単なる都市拡張というのでなく、自治都市として進化しつつ、生長する生き物のような景観をもたらした。

 都市がじわじわと拡大する時、一個一個の新しい建築物、ここでは町家が付け加わる。その町家は一定のルール、暗黙の慣習に従いつつ、そこに見出された不整形な場合もある土地区画を機能的空間にさせてできるもの。つまり、全体の一元的な秩序は存在せず、個の最適解となる。その集積が町並みをつくる。既成の町並みの中で改造がなされる際にも、その場での最適解とし、新しい町家が形を得る。個が集積して全体ができるという、一種の有機的システムが形作られるのだ。

 イスラムの迷路都市も全体的な形態秩序なき有機的システム。そこでは中庭型の閉鎖的なユニットを前提とした。ヨーロッパではファサード、つまり入口側の壁をステータスとして形式化されていたので、迷路的にはならないが、曲線街路網の複雑系ということでは共通する。有機的システムにも条件となる変数が異なると、様々な景観に多様化する。そういう意味では高級住宅地として次第に広がった世田谷にも迷路都市のような性格が見いだせる。他方で世界各地の大都市近郊のスラム地区も、一種の有機的なシステムがあると言ってもよい。

 ただ、一元的な秩序がないだけであればカオスになる。どこが違うかと言うば、そこに不可視の秩序志向があって、その場での住みよさ、機能性などが追求されているということ。法律化されない共通意思があるということ。つまり、個に共通意思が内蔵されているということ。ヨーロッパの中世都市の場合、キリスト教をともに信仰することで、相互の共同体意識が働いていた。この時代、宗教なしであれば相互信頼が育たず、有機的システムはできなかったろう。ルネサンスが中世の暗黒時代を解消したような議論がよくあるが、それは表面的な解釈。中世型の宗教は、人々が仲良く平和に生きるためにあった、一種の共通意思。そういう意味ではトップダウン的な形式主義的理想都市に走ったルネサンスより、ずっとボトムアップで、個が尊重されていた。中世型の有機的民主主義がつくる都市像を見直そう。世俗化し、頽廃する聖職階級が本来の宗教精神を腐らせてしまったのだったが。

 ただ、ひとつの宗教は異教徒の差別という暗い原理を備えていて、ユダヤ人はゲットーに押し込められた。ユダヤ人の商業力や知力は都市のエネルギーにもなったので、全く追放されはせず、いわばそれも有機的システムに組み込まれていたようだ。生命体の進化過程は、敵対する生命体の遺伝子を糾合することで先に進んだ。異種の要素を有機的なシステムに糾合できた生命体こそが、より高度の生命体になれる。人類がその証。

 計画都市と自然発生的な都市の対比がよく唱えられるが、より適切に言えば、後者は自然に進化を経ながら有機的な複雑系を形作った都市ということになる。単に野原にできた原始集落を有機的とするだけでは不足。あるいは非計画的に建築物を集積したというだけでも不足。個が時間をかけて集まり、全体を作ったというシステム・モデルを見落とすと安っぽい都市論に陥る。

三次市民ホールは洪水に事前対応してデザインされていた

 2018年7月豪雨災害。広島県ではあちこちで土砂崩れが起こり、犠牲者も多数。岡山県では真備での洪水災害がメディアで大きく取り上げられた。相対的に目立たなかったが広島県内でも、中国山地三次市の盆地で洪水となった。三次市民ホール「きりり」も水に浸かった。ただ、それは設計当初から予測され、対策が立ててあり、案の定ということになった。

 設計プロポーザルの段階から、青木淳氏の提案は他とはっきり違っていた。3.11を経験した後、まずはリアルに災害対応が大前提。ブティックのしゃれたデザインで知られる青木氏の提案として意外だった。建物本体は嵩上げした形となり、地上は全体をピロティとするという。あまりにざっくりとした提案。しかし、このクリアな合理主義が、今度の洪水で有効性を証明した。

 プロポーザルはプログラム提案のようであり、出来上がる建築物の姿はよくわからなかった。竣工後の姿を見て、もう一度驚かされた。外形はインターナショナル・スタイルの再来。悪く言えば無骨。そして大ホールの内部はまるでバウハウスに帰ったかのような、無駄のない幾何学デザインと色彩処理。モアレのエフェメラルな表層は見当たらない。モダニズム初期の合理主義。ポスト・モダンの熟成しつつあった時代に、意外。つまり、青木氏のスタンスは当初からそうだったようだ。

 モダニズム批判に始まるポスト・モダンは、すぐに俗物化し、形や色の遊びに走った。思想の意味を理解しない俗物建築家たちにとっては、装飾と勘違いした。リアルから遠ざかった。飽食の時代。消費型資本主義。浮ついていった。ポスト・モダン文化はもはや批判対象に。そして哲学者も「新しいリアリズム」を言い始め、転換期がきたようだ。

 この転換期に、この三次市民ホールを見よ!リアリズムに帰ろう。エフェメラルから、本質の方へと目を移そう。霧の漂う盆地風景が美しいことから、「きりり」という名が採用されたというが、この際、姿勢を正すといういみでも、きりりと行こう。

 時代はマニエリスムバロック、そしてロココに至って終わる。「高貴なる単純と静かな偉大」という新古典主義への逆転。そしてバウハウス革命が近づきつつある。どのように21世紀スタイルへの転換が起こるか、予測はむずかしかったが、相続く災害への対応から、合理主義が、そして新しいスタイルが生まれようとしているようだ。三次市民ホールに学べ!