壁の情報建築論

 フェイク合戦を情報建築論として見てみよう。

 各種メディアはトランプのフェイク情報を非難する。トランプは各種メディアの発する不利な情報をすべてフェイク・ニュースだとして退ける。まるで城壁を挟んで矢が飛び交っているかのように見える。そう、ここに壁が立ちはだかっているのだ。いやむしろ情報の壁を築くことがトランプの思惑だ。メキシコ国境の見せるための壁だけでなく、不可視の壁も築こうとしているのだ。

 FTPを解体するということは透明化した構造をなくすること。壁を築いてやり合うのだ。保護貿易。保護するには壁が必要。

 大統領官邸を壁で閉じ、国境を壁で閉じ、多重の壁で、見通しの良い透明な構造を分断すること、それがトランプの基本思想。支配体制の核は親族で固めて壁、その周りを軍人系で固めて壁。白人支配層と移民を分断する見えない壁。

 民主主義はフラットな社会を目指す。個々人に権利と責任を担わせつつ、平等化。アメリカ合州国とは近代民主主義の理想社会だったはず。そこに多重化した壁、そしてヒエラルキー。これは合州国の終わりか。

 古代ギリシャの、広く地中海を覆った都市国家群の時代には、民主制と僭主制が繰り返していたようだ。僭主、つまり力をもとに支配者になる者。権謀術数、謀略を使って支配権を広げる者。嘘は謀略の手立て。対話でなく軍事力。確かに僭主は総合力がなければなれない。そして独裁者になると弾圧や奸計で対抗者を落としていく。周辺に戦争を仕掛け、弱小市民を兵士に仕立て、多くの人々を不幸にすることで自らの地位をさらに高める。忖度も助長する。僭主に時代には確かに版図を広げることもあり、僭主の欲望は華やかな宮殿を築き、残されもする。歴史学はややもするとモニュメントを称えることにもなる。そうか、トランプは僭主。そして意図的に僭主化を図っている。

 合州国が王国のように変貌するのか。そして華やかな宮殿が建築されることになるのか。それは、見えるものか見えないものかは不明だが、壁で囲まれるのだろう。かつて僭主が城を築いたように。見えない壁とは情報の壁。透明であるべき情報が遮断される。

 情報の壁は北朝鮮を代表として、中国にも、また世界の多くの独裁国家にも。シリアをめぐるロシア側情報と欧米側情報の隔たりには、戸惑わされる。ロシアも壁。自由と民主主義を世界に流布させるはずだった合州国が、今や壁作りに精を出す。

 中世都市の市壁、近世都市の稜堡式城塞。近代国家は国境という壁、税関という門。かつてのベルリンの壁、いまやパレスティナの壁。壁と門の建築学は古代の壮麗な都市門から、現代の検問所まで、系譜が辿れる。そして情報の壁とはインターネット遮断の電子テクノロジー。ファイア・ウォールとは防火壁からパソコンの検疫プログラムへ。

 アーキテクチャーは建築学から情報学へ。ならば、パソコンの検疫プログラムにも美学は成立しているのだろうか。美しいプログラム、快感を催すプログラムなどあるのか。目を圧倒する城壁のように、心を萎えさせるようなプログラムがあったりするのか。扁桃体が恐怖を感じるものが。

 スノーデンは壁を崩そうとした。現代民主主義のための英雄。体制側からすればテロリスト。

 透明な建築か、不可視の建築か。マジックミラーは外部から不可視。可視・不可視の建築。都市空間には可視・不可視の装置が錯綜する。防犯カメラは見られていないようで、見られている。監視する側の戦略。壁に代わる電子機器。都市空間はプチ戦争の現場。マスク、化粧、衣装で変装する人々。化粧道具から大手メディアまで、壁の情報建築論が体系化して整理できそうだ。

 

 

 

21世紀の神と神殿

 いったいいつから人間は神を意識し始めたのか。そしていつから神が消えたのか。

 生命体に脳が発生した時から、神のようなものが意識され始めたのではないか。生物は生存欲求がプログラム化されているが、環境にはそれを阻害する要素が満載されている。ガイア論的環境は生命体の存続を支えているが、異常気象などがそれを脅かす。愛すべきものも恐れるべきものも大自然にある。いわば生命体にとって外界のすべてが神。

 つまり、生物にとって超越的なものがすなわち神(に相当するもの)だった。もちろんまだ神という概念も言葉もない時代。

 神が概念となるのは、脳が進化し、大脳皮質が発達した後だったろう。ホモ・サピエンスが発生した頃には脳内に神のイデアが生まれていたろう。アーとかオーとか、原始的な発声の中に、神を意味する言葉が出現していたかもしれない。

 古代人は神々として特定し始める。エジプトの神殿には鳥やスカラベやら、複数の神々が図像化されて刻まれている。それらによって大自然は神々の空間と想定された。アクエンアテンは太陽を一神教としてそれらを統一しようとしたが、失敗し、多神教に戻る。神殿内の至聖所には舟が置かれ、人間界と神々の世界をつないだ。

 その後、ギリシャ、ローマは神々を擬人化し、多神教を一段階レベルアップした。神殿はその神の住まいとされた。人間界と神の世界は区別されるが擬人化を通してつなぎ合っていた。

 キリスト教イスラム教といった一神教では預言者の向こうに唯一者としての神がいるとされる。神ははっきりと概念化された。しかし形なきものである。愛すべき、あるいは恐れるべき超越的ななにかだったものが、ここでは抽象的な神となる。

 神の観念は人類以前から人類へ、現代へと続く、生存欲求や種保存欲求に対峙するものである。それは感覚的なものから概念的なものへと進化してきた。脳の発達過程に合わせて。

 ヴァグナーが神々の黄昏を言い、ニーチェが神の死を宣告したとはいえ、愛すべきかつ恐れるべき大自然は消えることなく存続している。神の観念は否定されようとしたが、実態として、神は人がつくった概念をすり抜けただけ。

 ルターらの宗教改革は中世キリスト教の体制を崩したが、ルターは教会体制を否定して聖書に戻っただけ。カルヴァンは日常生活の中にすでに神がいることを説いただけ。神はより抽象化して発見され直しただけ。ルネサンス文化は神が教会堂で聖職者に守られてでなく、人間の内側にすでにいることを示した。バシリカ式が否定され、集中式となったのは、儀式を通してしかでなく、大宇宙にいる神を直接的に接することができることを示そうとしたから。

 

 

 大宇宙の神は、啓蒙主義の18世紀に自然科学に直面する。自然の論理に神は内在することとなり、聖職者に科学者が取って代わる。科学はゆっくりとしか発達しないので、科学が解明できない部分では聖職者の役割が残るので、聖職者と宗教が消え去ることはなかったが、その効用範囲は次第に狭くなっていく。宗教と科学は対立するもののように見る向きもあるが、そうではなく、科学は宗教を追い込み続けるという構図。科学は神秘としての大自然、大宇宙を人間のロジックの書き換える作業だが、それが人工的である以上、無限に続く作業。その果てにあっても、神は生き残るもの。

 ただし、神を騙る、進化の系譜上に遅れている聖職者ビジネスマンたちのことはここでは論外。プラシーボ効果としての宗教が大半。現代の科学の時代には、無神論者こそむしろ神というものをよりよく理解している。

 現代にあっては、神は神殿にも、教会堂や寺院などにも居ないかもしれない。工場、オフィスビル、あるいは科学的分析を通した機能的な住宅にこそ、本来の神は宿っている。他方で科学の先端が追いかけるガイア生態系などに、古来から続く、愛すべきかつ恐れるべき神は居る。

 原子力発電所の巨大な建築物は、いわば現代の神殿。核燃料とはすなわち恐れるべき自然。それを電気を取り出すための物質としか見ていないことに間違いがあった。それは人間の技術を超越しており、太古の人類が神として、またそれ以前の動物たちも恐れた超越的な力。かつて人類が神の怒りと見たものを、今、私たちは炉心溶融に見ている。古代人が原子力発電所を見れば、神殿と捉えるはず。ある建築家が福島第一原発の4つの手に負えなくなった建屋を、4つの神社に見立てるデザインを提示していたが、これはひつとの卓見。

 震源のプレート境界、火山のマグマ溜まり、エフェメラルな台風など、それらもなお人間科学が手に負えない恐れるべき超越者。他方でガイア論の言う地球生命圏という愛すべき、あるいは縋るべき超越者。これらにも、古代神殿に相当する建築物、工作物を装備させ、現代の宗教(のような)施設とすべきところだろう。聖職者としての科学者を配置。もちろん科学万能と思い込まない、未知の神秘を頭の片隅の残す科学者を。神の進化過程を理解できる科学者を。

 ここで言う神殿はメタファーとして。現実には人間−環境系に無数のコンピューター・チップが分散配置され、地球生命圏がサイボーグ化した時代。地球が人間のすみかであると同時に、巨大な神。地球を畏怖しつつ、愛する。生態系を保全しつつ、脳化、身体化。21世紀とはそういう時代なのだ。生態系という掛け替えのない生成成果が愚かな人間によって消し去られないよう。

 

 

人間−環境系の脳化

 弱者こそ進化できる。とりわけ、脳の進化が起こる。

 男性社会では弱者である女性の方が脳の進化が起こっているのか。ただ、ずる賢くなっていくのであれば不幸なこと。より理性的な思考方法ができるように前頭前野が発達するのであれば、人類の文明は進む。北欧では議会の過半数を女性が占めているところがあるという。エコロジー、持続する生態系という意味でのそれは、女性の方が身体的にもわかっているから、特に今の時代には求められる。

 生態系の危機は、生態系が弱者になっていることを意味する。人工的なシステムが発達しすぎて、生態系が虐げられている。そうであれば、進化するのは生態系。生態系を保全することは、単なる現状保存ではなさそうだ。より進化する脳と弱者化した生態系が連携すること。それは人工物を有機的システムにして、生態系に合わせること。そのシステムはより進化したシステムであるはず。

 コンピューターがますます小型化することは、生態系に人工的な頭脳が分散的に細かく配置されること。生態系は生き抜かねばならない。人類の生存より生態系の持続の方がより大事。

 さて、そのような有機的システムとして都市・建築は改変されなければならない。これは地球社会の大課題。

 かつてラスキンは中世主義を通して近代人に人間的な感性の復権を唱えた。モリスは手仕事による居住空間再生を実践した。これらは百年後の現代的では生態系の保全再生に相当する。人間性の意味が一段階深くなった。ポスト・モダン期に始まる20世紀の中世主義、歴史主義、感性主義等々は、懐古趣味や復古運動、耽美主義に終わるのであれば未来はない。それを切掛にして新しい、進化した有機的システムの発見と創造につながらなければ、21世紀とならない。ペヴスナーの、アーツ・アンド・クラフツからバウハウスへというプロセスを再来させよう。ちなみにイギリスの復古主義者たちはこのプロセスを手仕事への冒涜として、愚かにも断罪する。

 人間の脳内での進化は時間がかかる。しかし人間−環境系という空間構造的なシステムは、極小化したコンピューター・チップによって、いわば環境頭脳を形作ることができ、進化させられる。強者たる人工的空間構造に対抗し、弱者である生態系の維持のためには必要なこと。

 障害者が義足を付けると同じように、いたんだ環境には補助装置としての建築物が役立つ。建築物はモニュメントである必要はない。ポスト・モダンの装飾ごっこ化は誤った道。進化論的に正しいポスト・モダンとは共生型の建築物。まずは生態系の現状を直視せよ。そしてその障害が何かを見い出せ。そして義足のように生態系の能力不足を代替せよ。

 脳内でもそのような思考をなす部分を活性化させよう。脳の使い方の問題。

 

人類誕生と人工物

  NHKスペシャル『人類誕生』がちょうど都市・建築進化論に刺激を与えてくれる。進化とは何なのか。

 人類が猿からさらに発達するのは、脳の発達こそキーターム。しかしそればかりではない。

 二足歩行が始まったこと。それは脳を高く保つこと。血の巡りが悪くなりそうだが、むしろ脳血管の発達を促したはずだ。キリンの脳の方が高い。しかしそこでは脳発達へのインセンティブはなかった。二足歩行はすでに脳発達へのインセンティブを伴っていたはず。ひ弱な肉体は獰猛なライオンなどに襲われたが、それから逃れ、また反撃するのに肉体的な発達ではなく、脳の発達、つまり知性の獲得へと進んだのだろうか。

 ひ弱な二足歩行者は両手が使える。自由な手は枯枝や石を掴めた。そしてそれを振り回せるように腕の筋肉や神経、関節が変形される。脳の発達はそれと連携し、相互作用が発達をさらに進める。道具使いに目は不可欠だから、首の回転も滑らかになる。ここで脳、手、目の三角がキーとなる。他の動物に対抗することのできる、知性、戦略的行動、可動性が人類にもたらされ、これがさらなる発達、深化を遂げ始める。

 なぜ、ホモ・サピエンスが体毛のない裸になったのか。それは長時間、持続して走ることが理由だったという。運動して熱を帯びる肉体は冷却しなければならないが、体毛がそれを阻害する。汗をかき、昇華熱が体温を下げるには、裸が有利だったとか。なるほど、体毛を失ない、肌が露出することは、一見、ひ弱になったように見えるが、そのようなメリットがあったのか。そこでは脚力が発達し、また直線的な二足での走行が可能なように、骨盤や下肢の発達が伴ったはず。しかし、それだけで体毛がなくなったというのは、まだ合点が行きにくい。頭毛、脇毛、陰毛だけが残ったのはなぜなのか。なにかさらに高度なロジックがあったのかもしれない。

 走っていない時、日陰にいる時、夜間などは寒くて不利ではないか。そこには暖を取る家が始まっていたのではないか。南アフリカの洞窟住居の話は番組の次回にありそうなので、その後の話題にしよう。

 ひ弱な二足歩行者は集団化して自衛し、また獲物獲得のために攻撃し始めた。アルディピテクス・ラミダスの時代には一夫一妻制が始まったという。他家族の共同生活は集団生活に向けて脳を発達させただろう。象などに見られるように、動物の集団生活、利他的行動はすでにある。人類の集団化、社会生活は前頭前野の知性の発達を促したか。手の発達は道具的理性を始めさせ、社会化は社会空間の形を構想させ始めたはずだ。シェルターとシェルター間の空間の形成へと進むのだろう。

 番組では、人類は偶然と逆転で進化してきたとしている。脳の発達についてはまだ話がない。私は、人体がひ弱になったからこそ、それをカバーするために脳の発達があったのだと思ってきた。そもそも、強者には進化が必要でない。弱者は絶滅するか、さもなくば進化を通して生き延びるかしかない。脳の発達は生き延びるための瀬戸際状況がもたらしたものだ。これは教訓としなければならない。現代社会においても強者は、進化した弱者によって克服される。民主主義とは弱者の社会進化の結果ではないか。王国、独裁政権は進化の上では古い。

 人類が裸になったのには、持続的走行という積極的な目的があったからというより、突然変異で弱体化したのではないかという説を捨てきれない。二足歩行は猿の集団の中で弱者が森から追い出されて地上に降りざるを得なかったから、という消極的な理由付けはできないのか。遡れば、強者の甲殻動物が地上を支配した時代に、表皮が弱くて無防備で、餌食にされていた脊椎動物が逆転して行ったのは、柔らかで変形しやすい身体が進化を進めることができる自由度を残していたからではなかったか。

 弱者たる人類は手と脳を発達させ、知性をもとに、大自然に対して手を加え、改変し始める。人工というものがそこに始まる。そしてひ弱な体を自然や外敵から守るために、居住空間を人工的につくることになる。家の始まり、そして集落、都市の始まりがある。今日の人工知能もまた、そこに始まった。artifact =人工物。

 枝切れが武器となり、割れた石が道具となることを覚えてから、知性は発達し始める。洞窟の隠された空間、家族生活のための木々で囲まれたスポット等に住居のイデアが始まる。集団生活を囲う集落空間というイデアを見出す。やがて道具的理性は住居を人工的に構築する技術を生み、集落や都市を形作る輪郭としての壁とその内部の空間における住居等の配置のロジックを形づくらせる。そこにイデアなるものが生まれてくる。少し先走りすぎたか。

 

クオリア論からピクチュアレスクへ

 茂木健一郎は、山寺の五大堂から眺めた風景を前にして、並列する様々の「クオリア」の存在に気がつき、そのようなアウェアネスにあり方を「メタ認知」したのだと言う。そのことがいわばキーワードとなり、著書『脳内現象』が書かれているが、この書はまるでカントか誰かの哲学書のように、人間の認知のあり方を論理的に構築して説く。他に、より学術的にクオリアについて論じた著書もあるようなので早計はできないが、もう一歩、クオリアというものが確信しにくい。

 客体と主体分けて論じられるのが従来の哲学だったものが、現象学によって間主体といった舞台が提示されて新しい視野が生まれたが、このクオリアはその間主体の世界でのことなのか。赤、緑といった後頭葉の視覚野で起こる感覚的クオリア、他方で前頭前野の働きで目をつぶっていても生起する色彩イメージという志向的クオリア。志向性という概念は現象学のキーワードだ。茂木は哲学者なのか、脳科学者なのか。より脳科学的な説明が欲しかったが、この書では哲学的な書き方で終わっていて、メルロ・ポンティを思い出した。

 ともあれ、クオリア論に乗っかってみよう。

 風景を見るときには多様なクオリアが複合しあっている様が確認された。視覚野で生起する感覚的クオリアに誘導され、風景画家は前頭前野で志向的クオリアを生起させ、キャンバスに絵の具で再現する。それは写真ではないので機械的な再現ではなく、画家の様々の記憶や価値観と調整されてあるので、デフォルメが起こっている。風景画は画家の芸術家としての資質を通して再構成された、リアルらしさを伴う再現であり、鑑賞者が元の風景を見てみても同じ感動はないかもしれない。画家が実風景から視覚野、前頭前野を経て作成した風景像を、鑑賞者はキャンバスから視覚野、前頭前野を経て同じような作業を繰り返す。鑑賞者に同調する能力が足りなければ、優れた美を伴う風景画も意味を成さないかもしれない。幼児には大人の絵画も単なる色彩遊びにしか見えないこともある。もっともゴッホピカソの絵画は擦れた大人よりも幼児に共感されるという逆転現象もある。

 風景の再構成ということはピクチュアレスクの造園美学の基本である。日本的に言えば数寄屋庭園。さらには数寄屋そのもの、つまり茶室。極小空間に展開されるのは志向的クオリア群ということになるのか。舞台床となる畳の配置構成、書割となる壁面の構成。窓、その配置、形態、素材、光と陰影。床の演出。天井の構成。その組み方、変化。そしてそこで展開される作法。時系列の儀式的プログラム。茶室のデザイナーは志向的クオリアを散りばめ、構成、演出する。客人はそこで美を、あるいは純化された空間のエッセンスを看取する。

 美には離散的な美と集中的な美がある。ここでは離散的な美。美しい風景を見るときと同じような脳内現象がそこに起こっている。θ波ドーパミンか、あるいは別の脳内物質か。

 西洋的なarchitecturaの美学は集中的な構成の方に重点が置かれてきたが、離散的なものもある。古代ローマハドリアヌスのヴィラに始まり、イギリス式庭園、シンケルの宮廷庭師の家、ライトの落水荘まで連綿と。茶室の構成はリートフェルトシュレーダー邸に転換され、世界化された。ピクチュアレスク=数寄屋の手法はクオリア論をもとに論じ直されてよいのかもしれない。ピクチュアレスクの概念をイギリス式庭園に限定する教科書的な学者にはわからない世界。クオリア論を用いれば説得力が出るかもしれない。

 さて、一方で茂木の主張はホムンクルス論の再構成。メタ認知ができるのは、私というホムンクルスがいるということらしい。どうしても二重人格的な色合いが出てしまうので、まだ十分に整理できていないようだ。哲学的な説明でなく、脳科学的な説明が欲しい。多様なクオリアを統括しているひとつの私。なぜ意識はひとつになるのか。進化の過程で、ひとつの意識というものがどのように生まれてきたのか。生命誕生の時からひとつだったはず。そうでなければ個体は生き続けられない。これはなお当分解き明かせない難問。ここではどうでもよいこと。しかし、集中的な美は同様に、統一的な美をテーマとしており、通底する問題もありそうだ。ルネサンス建築のファサードはどうして一貫した統一性を希求したのか。ピクチュアレスクでは離散的でよかったが、そこには統一性を崩そうとする衝動から来ている一面もあり、統一性というものがいわば敵として意識されていた。ややこしくなりそうなので、ここではこの問題は置いておこう。

 

脳に思考停止を促す様式

 神経経済学というジャンルができているとのいう。株式投資などに際して意思決定する際に、専門家の言うことに無防備に信頼してしまう現象について、それは一方の報酬予測や情動的な認知・決断に関わる大脳辺縁系の前帯状皮質と、他方の理性的で抽象的な思考により衝動を抑制する前頭前野の背外側前頭前皮質が不活性となって起こる現象なのだと言う。(参照=http://www.hitachi-hri.com/keyword/k057.html)ここで専門家というのはクライアントが心理的にそのように認知しているだけでよいだろうから、本当の専門家でなく、専門家を偽装する詐欺師であっても有り得そうだ。知識量の圧倒的な差異が、自ら悩む必要のない全面的依存へと駆り立てる。

 ナチス建築はメガロマニー(巨大さ嗜好)で知られるが、日常の身体感覚を超越する巨大な壁面、円柱などが圧倒的な差異の感覚を引き起こし、人々の情動を麻痺させたのだろう。それは一種の新古典主義様式の時代をなし、ナチスによってプロパガンダの手段となった。様式を脳科学的に解釈するためにひとつのサンプルとなろう。脳を叩かせるのでなく、働かせないという抑制的、否定的なアクションだ。

 ナチス新古典主義古代ローマの巨大な神殿群に範を取っていたので、古代的な手法と言えた。神話的な世界を民衆に見せつけ、神々の世界と人間世界の間のスケール的な差異を目に見えるものとするのである。他方、バロックの時代の宮殿もまた単調で巨大な次壁面を特徴とする。プラハの丘上の大宮殿はそのようなもののひとつだが、カフカの小説に出てくる近づきがたい山上の城がもたらす心理的効果を連想させる。バロックと言えば楕円やうねる曲線に象徴されるわけだが、宮殿建築はフラットで巨大な壁面、エッジの効いた横長の矩形の輪郭を特徴とすることが無視されがちだ。巨大スケールにおける秩序感と細部におけるカオスというコントラストが、この時代の造形心理を的確に物語っている。近づきがたい宮殿というのは、やはり思考停止を求めるもの。

 出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打てない、ということにも通じるか。対応可能な相手であれば、脳は対応方法を考えることができるが、対応できないとなれば放置し、あるいは全面服従するしかない。それもまた建築デザイン表現のひとつである。民主主義の時代には、巨大な壁面や形態は避けるべきだ。人々が批判的な発言ができず、思考停止するようでは、民主主義は成立しない。

 コールハースCCTVはどうなのか。あれは巨大権力をメタファーとして揶揄したものなのか。グローバリゼーションの時代の心理を表現したものなのか。中国人は、あれをパンツだと言うのだそうだが、そこに政権批判も込められているのか。あるいは諦め感を示す自嘲的なことばなのか。ザハ・ハディドの異様に巨大なオブジェのような建築はどうなのか。時代のバロック性を象徴しているようではある。あるいは遠くから見て、掌に収まる玩具のような感覚なのか。共産党体制での新古典主義的な政治的建築とは対極にあることは確かだが、あるいは新しいファシズム建築のスタイルであるのかもしれない。微妙は境界線に立っているようだ。

 

 

メッセージ物質で様式論

 今回(2017-18年)のNHK人体シリーズは、臓器よりもホルモン、つまりメッセージ物質を焦点化。これに刺激されて・・・。メッセージ物質は解明途上。現代の情報論の時代は、人体内での情報システムの存在に光を当て始めた。脳からの指令だけでない、臓器相互のコミュニケーション。西洋医学の還元主義は、東洋医学のホリスティックな考え方と融合しつつあるようだ。経験からの知恵を近代科学の深化につなげること、そこに東西の二元論は解きほぐされていく。ホリスティック、つまり全体論は上手に扱えば意義深いが、下手をするとカルトになるので危険。やはり近代科学のほうが堅い。

 実証主義歴史学はエヴィデンス重視であり、残された形あるものがないと話が進まない。見えなくなった事実はなきに等しくなる。がん細胞は切除するか、薬品で対抗するしかないというのが常識だったが、メッセージ物質が解明されてくると、いわば情報操作で事態を変えられる。エヴィデンスとして残らならなかった情報の流れがわかれば、意外な真実が明らかになりそうだ。様式を成立させた情報の流れに着目することで、形式的な様式分類ばかりでない何かが見えてきそうだ。しかし、情報は多様だから、どの情報が影響したのか、選び出すのがたいへんだ。山中さんがiPS細胞を見つけるまでの作業のように。

 様式変遷の歴史的過程を生命現象に見立てよう。古典様式、中世様式、近世様式などはすべてつながっていたものと考え、ある身体が時代によってボディランゲージの所作の形式を変化させてきたものと見立てられないか。古典様式のオーダーは、ゴシックの細身のオーダーに転換された。それはルネサンスの比例理論で古典様式調に転換された。近代のオーダーはル・コルビュジエサヴォワ邸の円柱、あるいはミースのI型鋼コラムに見られる。歴史を貫いて、柱には重みを支えるという役割があるが、それが多様な様式として形式美になってきた。同じ作用のためになぜ多様な形になったのか。その生成過程にどんなメッセージ物質が働いていたのか。ここで言うメッセージ物質とは工匠ないし建築家の脳と身体に働いた、何かの信念のようなものである。そしてそれを発信させる背景に、その時代の社会の指導的な理念というものがあったことになるろう。

 信念というものはあいまいで、原因と結果を直接的な関係で結ぶことがむずかしい。東洋医学に照らして言えば、どこかの壺を抑えると別な場所で臓器が反応するようなものもある。これでは近代的な学問になりにくい。そもそも実証主義は足かせになりがちで、真実に迫ることさえ門前払いにしてしまう。しかしホリスティックなのだと言い切ってしまっては元も子もない。メッセージ物質の研究でも、結果で出るからそうなのだろうという、曖昧さは残り、「よくわからないが」という言い訳が伴っている。推定有罪も当面は認めながら、より精細にしていくというやり方がよさそうだ。

 後期ゴシック教会堂内部の細い円柱が、途切れてつながる柱だったものが床から天上のアーチ先端まで一本にまとまることなどは、多様な部品に始まり、ひとつの建築躯体に統一されていく過程の終着点と見ることができ、そこには一体化して単純化せよというメッセージが出ていたことを示す。なぜ一体化のデザイン意思が働いたのかは、社会統合の意思が関わっていたものと、一応推定される。物資で外化された形としての建築物は脳内での一体化要請のメタファーであるが、視覚上での一体化と精神的な一体性が共感覚で連携したものと言えるのか。

 とりあえず、このような論法で、これから多様な現象を考え直してみよう。