ルネサンス脳

 ルネサンスを迎えるイタリアでは、中世のテデスコ(ドイツ)の建築様式、つまりゴシック様式に対する嫌悪感が高まっていた。古代ローマ時代の遺構は到るところにあり、その建築様式が理想的を見なされ、その復活が目論まれる。しかし、それは単なる復古現象ではなく、人文主義という新しい地平での新文化の創造であった。

 少し不思議なのは、ゴシックのイタリア語ゴティコという言葉は、ゲルマン民族のうちのゴート族の名に由来するが、イタリアがゴート族に支配されたのは5世紀末から5世紀中頃までのことであり、サンドニ修道院教会堂でゴシック様式が生まれる12世紀中頃のはるかに以前のことである。10世紀以後、イタリア半島はドイツに拠点がある神聖ローマ帝国に支配されるが、その名の通り、この連合国家古代ローマ帝国衰退後の混乱したイタリアを安定させるために、古代ローマ帝国を継承するという姿勢だった。イタリアでは独自のロマネスク様式が生まれ、ゴシック様式もかなりイタリア化して取り入れられた。ミラノ大聖堂シエナ大聖堂など、明らかにイタリア人の感覚が盛り込まれた固有のゴシック様式となっていた。ヴェネチアの総督宮殿などは19世紀にイギリス人ラスキンが、その独特のイタリアらしさに憧れるほどだった。なぜそれが嫌われたのか。

 また、ルネサンス期はキリスト教の大きな転機でもあって、ルネサンスの建築様式は従来のキリスト教教会堂の建築様式を否定するものだったから、ドイツ嫌いというよりは中世型の宗教を嫌ったという側面も大きい。ブルネレスキらが復活する建築様式は、実態としてはビザンティン、ロマネスク、ゴシックを含む中世キリスト教の時代の建築様式を退け、キリスト教以前のローマ帝国の建築様式に倣おうとした。ゴシック批判はわかりやすいアジテーションのネタになっていたという一面もあろう。皮肉なことにとばっちりを受けたゴート族だったが、彼らとは何の関係もないゴシック様式の名は、当初の蔑称だったものが、今では重要な歴史的様式の名として定着してしまった。

 妙な経緯ではあったが、結局、15世紀に隆盛となるルネサンス様式は、壮大で重厚な古代ローマ帝国の建築様式よりは、明るくて人間味のある様式となり、かなり換骨奪胎された形で復活する。古代ギリシャ、ローマの文化を知的に再解釈しようとする姿勢は、人間中心の時代にあって古代とは異なる世界観を築き上げる。もちろん中世の世界観も否定され、そこに新しい時代を迎える。人間礼賛を基盤に、ネオ・プラトニズムという古代再生型の思考体系は、特にイタリア本国では近代文化の始まりとしても位置づけられている。

 建築様式は古代の装飾様式を採用しているわけだが、建築形態の比例などは、いわば近代的な比例理論に従っており、それが教会堂のファサード、プラン、ドームを中心とする立体構成などに展開された。もはやそれは古代とは大きく異る建築様式となった。ブルネレスキの捨て子保育院に見る整然としたアーケードのファサード、アルベルティのサンタ・マリア・ノベッラ教会堂に見るよく比例分割された新規のファサード形式など、人々は幾何学的な比例美というものを享受することとなる。

 それは眼球から視神経を経由して後頭葉の視覚野に至り、色彩と形態が細かく分析される。ファサードの大理石の鮮やな色彩、白色の石肌が反射する光、きちんと構成された水平線、垂直線はいずれも単純で捉えやすく、色彩や形態の認識に特化されたニューロンを直接的に、また即応的に刺激する。いわば脳にとって解釈しやすい刺激なのだ。中世キリスト教のもとでは憂鬱で抑圧的な空気を克服しなければ恍惚感は得られなかったが、ルネサンス建築はいきなりドーパミンを放出させる。宗教音楽も同様に聴覚神経、聴覚野を通して脳を即座に反応させる。これがルネサンス脳の基本なのだろう。

 ファサードの二次元的な秩序、またそれを三次元化した際の透視図法に則った建築空間は、ルネサンス脳の特徴である。脳が明快な反応をしてくれるためには、ファサードの奥が複雑になっていたとしても、ファサードはデザイン画のように明快に水平・垂直に構成させられる。ファサードに窓が並ぶ時にはたとえ開口部が必要でないところでもブランド・アーチなどで窓型だけは造形される。壁の向こうに空間がほしいと思えば透視図法でだまし絵を描くように薄いレリーフが持ちられる。ルネサンス脳にとっては眼に入るものは秩序だったいなければならないので、トリックを使って嘘をつくこともやむを得ない。人の目の恒常性という特質は、歪んでいるものも目で修正し、秩序だったいるものと強引に解釈する。ある意味では綺麗ごとで表を取り繕うという、あまり芳しくない癖も伴っている。それも含めてルネサンス脳と見ておかなければならない。

 この伝統は現代イタリアまで続いている。デザイン大国イタリアの地位は揺らぎようもないが、見た目で選んだ小物が壊れたりする。ドイツ製品は見た目は無骨だが、メカは故障せず、質は高い。テデスコの自動車はイタリアでも質の高さで好まれる。やや嫉妬も含まれるようだが。ずいぶん昔、ベルリンでイタリア人建築家アルド・ロッシが小さなホールで講演を行ったので聞きに行ったが、たまたまドイツ製のスライド・プロジェクターがうまく作動せず、ロッシが「ドイツ製品かい!」と皮肉っぽく笑ったのが面白かった。

 

 

ゴシック様式・・・ つづき

 様式は数百年継続した。この継続性がテーマ。庇護感は長続きしないだろう。基盤的な庇護感は持続するだろうが、次第に薄れる。より強い庇護感を得るにはより新しい要素を持って、人の感覚を刺激しなければならない。新しい刺激をもたらした新しい工夫も記憶に残されると刺激的ではなくなる。例えば視覚的に、以前よりもさらに刺激的な視覚表現が求められる。素朴なゴシック様式は、より繊細に、より大胆に、より刺激的になっていくこととなる。

 教会堂の内部では、信者は様々の苦悩から解放してもらいたいと願う。苦悩の原因は教会堂の中で取り除くことができるものではないが、苦悩に耐える、あるいは苦悩をぼかすために、宗教が貢献する。教会堂の建築物は世俗の些末なことがらを一時的にも忘れるような仕掛けが備えられている。信者席でひとり祈っていれば、個として神に直接つながるように感じることができる。厚い壁の内部はひと目も届かず、静寂で雑音は聞こえてこない。壁や柱は聳え立ち、天に届くような感覚を覚える。世俗的な感覚を離れ、意識は高みに引き上げられ、心身の苦痛を忘れさせる。感覚器官が取り込むものと脳が組み立てる意識の間にズレが生じる。

 心が大きく現実の身体から遊離することで、人は恍惚感を味わうこととなる。感覚器官の能力を超えるには、視覚の範囲を越える聳え立つ垂直の空間、ステンドグラスの光を満面に帯びた聖人の絵画像、石壁の間を反響するオルガンの音楽など、閾値を超えて日常の感覚を乱す要素が教会堂に備わっている。ピークフローの理論だ。そこに神の存在が幻のように感じ取られることとなる。幻視、幻聴が起こることもあろう。

 薬に免疫ができてしまうように、恍惚体験は以前より以上の刺激を必要とする。教会堂の造形・演出者は信者の欲求に答えるべく、効用が持続しなくなると刷新が必要となる。他の教会堂で見てきた新しい工夫を取り入れることが求められたりしたろう。そうして新しい芸術様式が伝播し、また進化し続ける。

 恍惚感は快感物質によるだろうから、例えばドーパミンを放出させる刺激があるのだろう。快感のメカニズムが働く報酬系が活性化する。

 

ゴシック大聖堂と脳

 ゴシックの大聖堂は脳科学的に解釈できるのか。なかなか答えが見つからない。中世においては個人は埋没していた。ルネサンスとともに人の個人的な能力が直接に評価されるようになるが、中世には芸術家の名前もおぼろげでなる。そこでは個人よりも共同体社会が優先されていて、個人は全体に奉仕するのが当然という心理構造があっただろう。

 そこでは社会集団の心理がテーマであり、アドラー心理学のような共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)で解釈する方が理解しやすい。生得的なレベルでの生物学としての脳研究は役に立たず、後天的な社会心理の生成についての研究の領域なのか。アドラーは人間をホリスティックに眺めていた。身体がひとつのモナドなのか。モナド群が社会をなし、ひとまとまりの社会の利害が共同体意識をつくる。

 そこでは教会堂はひとつの共同体を収容するシェルターであり、いかに強固なシェルターとするかが課題となる。共同体をなさなければならない理由は、例えば農業生産における共同作業、社会の内的な秩序を保つための民主的な社会運営、つまり政治と行政、他の共同体との対立・協調関係からくるテリトリー、境界線の意識。教会堂は共同体に神の恩寵があるようにという、安心・安寧心理を操縦する施設。

 恐怖を感じる扁桃体が興奮状態を脱するためのツールとしての宗教というもの。教会堂は扁桃体の緩和手段。そこでは具体的にどのような建築的なメニューが用意されているのか。あらゆる項目が関わるだろうから、すべてを挙げるには手間がかかるか。

 例えば、大集団を収容するための大ホールとしての教会堂。その集団がひとつの儀式(ミサ)に参画し、聖歌をともに歌い、殉教者キリストの善意を共感する。聖俗の区切りをつけるために重厚な壁によるロマネスク様式、地上と天上を結ぶ垂直軸がモチーフとなるゴシック様式がそこに生まれる。

 個々人の脳は、例えば立ちはだかる重厚な壁に囲まれて、洞窟住居に原始人が覚えた庇護感覚を覚えたか。垂直軸線は森の大木の頼りがいのある依存相手と感じたか。扁桃体から恐怖感を解除させるのに貢献したことだろう。ロマネスクの壁にはわずかながらの素朴な装飾が生まれはじめる。窓は素朴な円形アーチで閉じられて安心感がある。壁が各部位に細かく分割され、解きほぐされていく過程において、ゴシックに遷移する。そこに垂直線が次第に明確に、また繊細に表現されていく。区切られた丸柱は次第に足元から天上の頂点まで続く一直線に変貌して、固有の生命感を帯びていく。大きくなった窓にはステンドグラスが色彩と光の芸術的演出をなし、そこに聖人たちの大きな像が描かれて、多数の聖人像が周壁をかたちづくる。庇護感覚はますます高められる。

 とりあえず、扁桃体が大きく関わることはそのように説明できよう。もっと多様な部位との関係を知りたい。

 

 

ミケランジェロの造形脳

 ゼキによるとミケランジェロの彫刻、絵画に未完成が多いのは、作為的だったという。未完成の部分に対して鑑賞者が多様な読み方をできるのが、彼の意図なのだそうだ。やや穿ち過ぎのような気がするが、覚えておきたい。私には、ただ、あまりに目標が高いために自らにプレッシャーをかけてしまい、自縄自縛に陥ってしまったのではないかと思える。

 鑑賞者に対する姿勢という意味では、ある程度、共感できるところがある。建築物のデザインにおいては自己満足よりも使い手のことを考えるものだろう。サンピエトロの場合、足元からドームに至るまでの力の流れが表現された。それは見る者に安定さを印象づけ、安心感を与える。その力感を表現しようとするのは、メディチ家礼拝堂の彫刻に表れていたものだ。

 ブラマンテの完全な半球体としてのドームは、ミケランジェロによっては捨てられ、やや尖り型のドームとなり、かつ上下のラインが目立ってくる。プラトンイデア幾何学秩序はやや崩されるのだ。それが盛期ルネサンスから後期ルネサンスバロックへというミケランジェロの傾斜を象徴している。静謐な秩序ではなく、力動性を孕んだ安定感が目標化されていた。

 その変化の方向性は、彼自身の内部に閉じられた完全性ではなく、社会、といってもこの時代は今日的大衆社会ではなくメディチ家に代表される都市貴族たちの社会が求めたものだったろう。ミケランジェロの変遷過程はまさに、この時代の社会に運命づけられたものだった。ルネサンスとは人の内側で進行する生理的な現象に突き動かされて起こっており、現状に留まることをよしとしない人間的な欲望がそうさせた。

 より新しい、より納得のゆく表現を求めて、様式は急速に変遷してしまい、ミケランジェロの脳内での進化スピードに、制作が追いつかない。そうなれば、制作途中の作品が、もたもたしていると矛盾を孕んでしまう。未完成のままを少し間を空けてしまうと、改めて着手しようとすると、もはやイメージが合わなくなっている。そんなことがミケランジェロを悩ませていたのではないだろうか。

 建築であれば、おおよその図面を一気に描いておけば、あとは弟子たちが形にしてくれる。完成した頃にミケランジェロ自身が不満に思ったとしても、組織がカバーしてくれる。自ら最後まで手をくださなければならない彫刻や絵画はそうはいかない。サンピエトロは完成に至るまでに他の芸術家の手に移り、プランなどは大きく変化させられた。

 つねにより新しいもの、より生き生きしたもの、より深い表現ができたものを求めるというミケランジェロの脳を分析したい。出発点の造形感覚は記憶に残り、脳内で様式化している。その際の様式とは眼と手が関わる視覚野、体性感覚野、運動野、そして時代の要請などの知恵が関わる前頭前野、創造することの芸術的意思が関わる扁桃体(?)、等々、全脳がある流れのようなものをつくっているのだろうか。その流れ方が、いわば自己批判の連鎖をたどって急速に変化してしまったら、終わりというものがなくなる。

 芸術と脳の関係についていくつか新しげな書籍を当たった勉強してみたが、もうひとつ腑に落ちず、この造形作業というものがわからない。ゼキは視覚野との関連で絵画の解釈方法を教えてくれるが、動的な造形意思のところが欠けている。カンデルはいきなりフロイト的な性衝動のテーマに没頭してしまい、飛躍がある。もう少し考えよう。

 

 

フェルメールの空間表現

 フェルメールの絵画で特徴的なことは、絵画の主人公が横向きであり、鑑賞者に整体してくれないところだ。『窓辺で手紙を読む女』や『真珠の首飾りの少女』は、窓から差し込む光に向かって佇む女性という典型的なパターンを見せる。視線をこちら向きにする『手紙を書く女』や『ヴァージナルの前に立つ女』ではあえて顔を描いてほしいと願ったのか、体は横向きで動作中である。『真珠の耳飾りの少女』は肖像画風なのになぜか横向きでこちらに振り向いたところを構図化している。『音楽の稽古』では顔は鏡にかろうじて見えるものの、全く後ろ向きである。

 着飾って肖像を描いてもらおうとする従来の絵画スタイルとは明らかに異なり、普段の生活の一端を記録するスナップ写真のような趣である。だから人物を取り巻く室内の空間スポットが詳細に描かれる。主題は人物が半分で、まわりの空間が半分といえようか。その空間表現に時代、社会が反映され、読み込みが面白くできる。室内にはテーブル、椅子、楽器、壁掛けの額縁など、いくつかの室内型静物と呼ぶべきものが寄せ集められている。部屋の形状はシンプルで、これらのオブジェ群もクリアである。生活感のある部屋そのものが主題であるかのようでもある。

 『牛乳を注ぐ女』もまた同様なのだが、これは誰に依頼された絵なのか。メイドさんが買い取るほど安くはないはずだが、誰がこの絵を自分の部屋に飾ろうとするのだろうか。フェルメール自身のメイドさんであって、日頃のサポートに対する感謝の意味で、プレゼントしようとしたのか。そうは言ってもこのリアリズム絵画には記念写真のような媚は見られない。ミレーのような社会主義にも通じる世界観が見られる。台所かと思われる簡素な部屋ではあるが、色彩の構成、反射光の輝度、陰影など、描法の教科書の参考画のようでもある。光が差す窓辺の構図という点では、着飾った女たちの絵と対等であり、ただ実用性のみの衣装やオブジェ群というところが差し替えられている。

 貴族の時代から市民の時代へ。15〜16世紀のイタリア・ルネサンスネーデルランドの北方ルネサンスへと継承されたが、17世紀のこの時代には社会構造の変化までもたらしていたようだ。キリスト教新教カルヴァン派の経済合理主義は室内の労働者まで絵画の対象に持ち上げた。フェルメールの絵が親しみ深くて人気があるのは、このような一般市民の水平な視線が受け入れやすいからでもあろう。

 鑑賞者は何気なく絵画空間に入り込み、感情移入しやすい。劇的空間ではなく、日常的空間がそこにある。芸術心理を学問化したリーグルは『オランダ集団肖像画』で、従来の集中型、内的統一型の絵画に対する非集中型の絵画の存在を説いたが、それはここでも共通するものがあり、納得できる。画法の革命も進行していたのだ。

 さて、空間表現に関して、フェルメールの透視図法の用い方に注目。箱型の室内空間、壁は素朴で平坦な矩形、床は明快なチェック模様、天井には水平の小梁。実に単純明快。左手の窓際の隅が定番なのだが、この部屋の他の部分はどうなっているのだろうか。左から陽光が差し込み、拡散光となり、人物像などに陰影を生み出す。この非対称の構図は何を意味するのか。背景の平坦で大きな壁は視線に対してほぼ正対し、左手の窓は奥行感を出すためだけの道具のようだ。斜めにしか見えないガラス窓のデザインは意外に多様であり、かなり凝ったものもあって、絵入りのものもある。そこに当時のテクノロジーのレベルも感じられる。

 遠近感は基本的な構図の特性となっており、人物像のある中景を挟んで、近景にカーテンが空間の区切りをなし、遠景は壁でしかないがそこに絵画や鏡がかかっていて奥行感の助けとなっている。床タイルのチェック模様も含めて、遠近感はしっかり意図されている。左手の窓のある壁は急角度の透視図法に則っているが、いかにも透視図法を誇示するような絵画とはちがって慎ましさがある。

 フェルメールの透視図法の能力は、都市景観を描いた絵画に確認できる。『小路』と題された街路沿い景観の絵画は、正対する平坦なファサードと奥に視線が届いて遠方の三角屋根が対比的に描かれ、基本的な構図をなす。見逃せないのは、わずかに透視図法を用いて描きこまれた細い路地があり、その奥にメイドさんと思われるひとりの女性が仕事している一角である。ファサードの二次元的な構成がこれだけで一気に三次元空間化されるのである。オランダ近くのアーヘン出身だったルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエも似たような、奥行方向に細長く延びる廊下を透視図的にスケッチしたが、それに共通するものであり、ひとつのスキームの歴史を認識させる。

 フェルメールには珍しい遠望する風景画『デルフト眺望』では、左右に展開するパノラマが印象的なのだが、実は横に伸びる船着場に対し、右手の市門は奥行方向に長い構造となっていて、平面上では直角の構図となっているところである。現地に立って確認したのだが、随分改造されていてこのままではないが、画家がどのような構図を題材にしていたかについて、この点は見落とせない。奥行方向に延びる煉瓦造の市門の複合構造物のすぐ左に堰にようなものが見えるが、ここからまっすぐに奥へと運河が流れていて、絵画では認識しにくいが、そのためにここは奥行方向に窪んだかたちとなっているのである。縦横軸の直交する構図は『小路』の絵画とよく似ている。

 そのように見れば、フェルメールが空間の構図にこだわり、またルネサンス特有の透視図法を、イタリア人とは異なる独自の感覚でパターン化していたことがわかる。他の誰かが指摘しているかどうか知らないが、実はフェルメールの脳内にはそのような空間のスキームが形成されていたのだった。それは建築家の脳に近いものである。そのように考えると、室内空間の構図も含めて、フェルメールは一種、建築設計のような感覚で絵画の構図を構築していたことが垣間見られる。それは画家というよりは近代的なデザイナーの能力である。

 ゼキはセザンヌからピカソへ、画家の脳内で起こっていたボトムアップトップダウンの認知活動の変遷を指摘しているが、ここでも同種の分析が可能なのだろう。ルネサンス期の透視図法がもたらしたあるスキームがフェルメールの脳内に構築されており、それが彼の画風に大きな影響を及ぼしたいたことになる。謎の画家フェルメールのほとんど指摘されないポイントであろう。

 

 

ファサードの対称性

カンデルの脳科学的解釈によると、人の顔は対称であるほど、見る者に快感を与えるのだそうだ。ココシュカの絵画を画像操作をしながら説明される。対称な顔は生物としての健康さを示し、非対称は何らかの不具合が原因で起こっているとされる。ちなみに眼球から視覚野に届いた情報は、視覚連合野の顔や身体の認識に特化された側頭葉下部にある紡錘状回顔領域で解析されるという。上下が逆さまに描かれた顔は、顔と認識されないと言い、二重に顔を描いただまし絵の原理をなしている。

 ここでの関心は、建築物の顔であるファサードでも人の顔の認識と同じようなことが起こっていないかということだ。例えばゴシックの大聖堂ではファサードは他の壁面に比べて圧倒的に情報発信しており、まさに顔としての役割を果たしている。ルネサンスの教会堂ではファサードはまるで壁紙デザインのように幾何学と古典様式の装飾で覆われている。イタリアの都市ではファサードの石貼りまで至らずに煉瓦壁が露出した教会堂をよく見かけるが、目を引きつけるものがなく、素通りしてしまう。

 しばしばミサに訪れる教会堂の教区の信者たちはファサードをよく記憶していることだろう。側面や背面はほとんど構造物としてしか目に映らず、ファサードだけが視線を受け止める。基本的にファサードは対称である。ゴシック教会堂ではストラスブールのように、片方だけに尖塔があったり、シャルトルにように大小の尖塔が非対称をなしている場合もあるが、それは双塔式が途中で単塔式に方針転換がなされた結果である。対称性はより健全なものと知覚されるのかどうか。

 そもそも双塔式は、ザンクト・ガレン修道院プランに知られるように、ミヒャエルとガブリエルという二人の大天使が、軍神として教会堂の入り口を守る塔で表現されたことに始まる。ロマネスクの教会堂は双塔式が原則であり、ゴシックへと続く。そして後期ゴシックの時に単塔式が教会堂に上昇感のある統一感を与えるとされるようになって、方針転換が起こった。だからウルムの都市教会堂のように高さ150mという見事な単塔式の尖塔が登場し、ここでも対称性が保たれた。

 ファサードが左右対称であれば、確かに目に心地よく、安定感がある。ゴシック様式では詳細な装飾が施されるが、その対称をなす配置は心地よい。そのために左右に同じものを製作しなければならないという、一見無駄なことが必要となるデメリットはあるが。ルネサンスになるとファサードに塔がなく、平たい壁面が幾何学的にデザインされて、対称性をなす。バロックの教会堂で双塔式が復活するが、そこで対称性はより厳格になる。

 顔を見る時、もしも片目にものもらいがあったりすると哀れに思う。丹下左膳は片手でもあるし、いつも哀愁を漂わせるが、守りたくなるという別の愛情をもよおさせる。その際に人は左右を見比べており、対称であれば健全という印象を持たせてくれる。ストラスブールやシャルトルは片方の塔の壮大さに目を奪われるが、どうして同じものがないのかという感情を引き起こすのは事実だ。

 ただ、そもそも非対称好きのイギリスなどは、別の非対称の美学を確立させているからここでは外して考えなければならない。そこではそもそもファサードというものがひ弱になる。

 

建築の始まりはどこか

 そもそも人の体表面に毛がなくなった時から、人は身を守るために衣服を必要とし、また住居を必要とし始めた。それには頭脳の発達が欠かせなかったわけだが、なぜ脳が発達したのかはいまだに謎らしい。毛がなくなった理由も同様。

 南アフリカ海岸線にある洞窟遺跡は、裸でひ弱な人がかろうじて逃れた場所だったらしい。住居の始まりは洞窟だった。やがて人はアフリカ大陸からユーラシア大陸へと移動し、人口も増える。アフリカ大陸では森林も砂漠(だったか?)もあり、身を守る手段がなければ多様な気候に耐えられず、また獰猛な動物に食い殺されていただろう。森に隠れて移動したのか、原始的な家をつくっていたのか。木や草でつくった家があったとしても数万年のうちには朽ち果て、痕跡も残らないだろう。竪穴式住居のような地面を加工した住居であれば、考古学者が見つけてくれているはず。

 原始住居として、まずは円錐形に木を組み、植物の葉で覆ったものが想定される。動物の骨や皮でドーム状のものをつくった例も知られている。いずれにせよ、インテリア空間となる洞窟の代替品が必要だった。木造の住居は次第に柱・梁を内部に仕込むようになり、そのアイデアが発展して、垂直に立つ柱で外壁をつくり、傾斜する木材で屋根をつくって、原始的な寄棟形式となり、また切妻形式へと移行した。柱の概念が発生したことは画期的だったろう。

 ロージエは樹上住居を始まりとし、柱は立ち木だったと想定した。しかし、いきなり樹上に上がるのではなく、地上にロート型にまずつくり、内部の支えてして柱を見出したとする方が自然ではないか。スイスの水上住居をロージエが知っていたかどうかわからないが、それを森の立ち木に還元したような発想である。いずれにせよ、柱の発見はターニングポイントだったろう。

 モンドリアンは水平線と垂直線に拘り、ドゥースブルフの用いた斜線に激怒したという。自然界には水平線と立ち木の垂直線は空間を理解する基本の概念であり、斜線は山の斜面の輪郭線など、不確定で、概念化しづらい。円錐形の小屋の輪郭線である斜線はきっかけを作ったかもしれないが、人工のものである。脳内の視覚野には水平線、垂直線、そして多様な角度の斜線に反応する神経細胞があるという。遺伝子レベルで決まっていることだろうから、水平、垂直、また傾斜ということの認知は人間の生存において重要だったのだろう。柱と梁は脳内の空間認知力が外化された原始的な創造だったか。洞窟生活を続けていれば、そのようなことは不用だったのに。

 空を飛ぶ鳥は重力の垂直性を身体的に知っており、水平線、地平線の直角関係を、少なくとも無意識の脳活動で知っていただろう。しかし巣作りは小枝などをランダムに重ねたお椀状であり、彼らに水平・垂直を操る創造性はない。雌に見せるために巣を見事なアート作品とする鳥もいて、住まいとしての巣というイデアはあったのか。人は水平・垂直の観念をもとに、面としての壁、また天井を創造することとなる。それは家の制作を通して、イデアとしての座標空間体系と数学的な面という観念に純化されていった。立方体というプラトン立体が登場する。球や円錐形は自然界に見出すことができなくはないが、立方体、直方体は人工のものである。建築文化の始まりが、この幾何学というイデアの発見・創造にあったのか。