脳内でのトップダウンとボトムアップ

 眼球のレンズを通って入った光が網膜に像を写し、視神経細胞がデジタル化して電気信号となし、後頭葉の視覚野でデータに分解される。それを再統合しなければ見た対象が何だったのか認識されない。前頭葉は記憶をもとにしてそのデータを解釈する。それが記憶にあるモデルに合致すれば、例えば人だと理解する。見知った人だと輻輳して記憶したモデルが安心せよと指令するが、そうでなければ不安感を引き起こす。もしも幽霊屋敷でよくわからない幽霊風の影を見たとして、冷静な人はそれが人だと合理化するが、そうでない人はモデルに合わないとして恐怖感を感じる。

 目に見えるものから解析してゆくボトムアップ型のプロセスと、手持ちのモデルを当てはめようとするトップダウン型のプロセスが、脳内でぶつかりあって、認知行動が起こっている。柔らかい頭の持ち主であれば多様で精細なモデルを備えており、恐怖に走ることが少ないが、堅い頭の持ち主は単純なモデルを強引にあてはめて失敗することもあろう。両プロセスは上手に対面することばかりではなく、ズレを生じて誤解につながることもあろう。そもそも、人間の脳はそのような造りなのだからしかたあるまい。

 ある時代の思考方法、つまりパラダイムとはこのトップダウン型のシステムのこと。その時代に合うように巧妙に体系化されているが、様々に多少のズレがあるのは、システム上のこと。社会は生き物であり、ある時代のパラダイムがもはや適用できないとなると、無意識のうちにパラダイムの拒絶が起こる。そして新しいパラダイムを創造する方法へと進む。とにかく、パラダイムがないと無政府状態のようなことになり、社会が混乱を極める。様式の転換もまたそのようなものか。

 ギリシャからローマへと、建築様式のパラダイムは継承された。しかし石造から煉瓦造へという基盤の変化があった。煉瓦造ならどのような構造とし、どのような工法を用いるのか、同じく組積造だとはいえ、かなり大きな違いがある。土とそれを加工した煉瓦を前にして、ボトムアップ型の認知作業があり、脳内のモデルを改編することになる。ローマ人はそこで、ギリシャの様式を石でつくる部分に限定し、装飾として用いることとした。躯体は安価かつ扱いやすい煉瓦とし、外装に薄い石材を貼り、合成した。いわば二重化したパラダイムとし、次第にその統合を図った。より複雑で巧妙化した様式となったのである。とりあえずはキリスト教が隆盛となるまでは。

 

脳内のイデアとしての様式:ギリシャ神殿

 ギリシャ神殿は木造建築をモデルとして、石で彫刻作品にしたものである。その際に木造の構造は力学的に石造でそっくりにはできないから、ある操作が加えられる。アルカイック期の神殿は太すぎる円柱を持つが、一本の柱は数個の石を積んだものである。重い石材は細長く積み上げるのが困難だから、太い柱となる。クラシック期のパルテノン神殿の柱はかなり細身になるが、それは安定性を犠牲にした美的な欲求の結果である。

 そこには円柱のイデアが形成されている。木造の記憶が脳内に残り、イデアを形成していた。太すぎる柱はやむを得なかったとは言え、木材のように華奢にしたい。イデアに合うようにという意思が細身の石造円柱へと進ませた。

 神殿の全体像は木造の家をモデルにした石造彫刻である。そもそもどのような木造の家があったのか、明らかになってはいないが、イデアとして、壁で囲まれた長方形プランの構造物が、円柱に取り巻かれ、全体に切妻屋根が載っていたことが想像される。列柱と壁との間はプテロンという、開放的な部屋のように名付けられているが、どう見ても庇くらいにした思えない。土壁に雨が当たるのを避けるための庇の先が木の柱で支えられていたものか。そうであれば日本の木造建築のように、庇はもっと深くなくてはならない。石造となった時に、イデアとしての木造建築が歪み始めたのか。

 プラトンイデア論は建築史の上でしばしば取り沙汰される。天上にある純粋幾何学立体が地上で多様に変形されたと想定される。それはルネサンス期には半球形ドーム、円筒部、立方体の躯体として目に見える純粋形態として再来する。古代にあってはそこまでではないものの、エンタシスを持つ円柱、単純な家型として表現された。

 神の住まいである以上、実用的な建築物である以上に、イデア化された建築像となったのだったろう。家型は次第に軽快さを見せるように変化し、また円柱は原始的なドリス式、優美さを込めたイオニア式、繊細に装飾化されたコリント式のヴァリエーションによって、表現に選択肢が生まれ、脳内に三様のイデアを形作る。神といういわば妄想が、仮想の想念であるイデアを形作り、社会的な記憶として人々に共有された。ひとつの建築様式の誕生である。

 もちろん、そのような発明はギリシャ人が初めてなした成果ではなく、彼らはエジプト人から学び取った。古代エジプトの神殿にはロータスの柱頭を象った、太くと丸みを帯びた円柱を想像していた。ロータスの茎は細くて華奢であるが、組積造の石造円柱とするには太くなくてはならなかった。柱頭にも閉じた蕾や開いた花びらなどのヴァリエーションがあった。ギリシャ人はエジプトの雇用されていたと言われ、その際に学んだ神殿建築の作り方をギリシャの現実に合わせて再現したのだろう。エジプトでは列柱は内部で用いられるが、ギリシャでは神殿外周でも用いられることとなったが、あるいはギリシャでの木造建築の原型がそうだったのかもしれない。

近世建築と脳

 近世の建築史は宮殿が中心となる。建築史の舞台は古代の神殿、中世の教会堂と続き、いずれも宗教建築の範疇にあるが、近世はその枠を超える。とはいっても、宮殿もまた宗教的世界観からの延長上に、新しい世界観の精神表現だったと見ておかなければならない、

 フィレンツェ中心部に建つメディチ家の館は、特に中庭に見るように、純粋な幾何学秩序を追求した成果である。ブルネレスキの教会堂設計方法にあった正方形を組み合わせる方法、またダビンチの集中式教会堂の円と正方形の幾何学は、人間の館へと注ぎ込む。幾何学と比例構成は空間を完全な秩序へともたらす。そこでは人文主義の知的な文化が反映し、前頭前野が関わる。美を感じるのはドーパミンのせいだとすれば、前頭前野から扁桃体側坐核へと脳波は流れるのだろう。

 ルネサンスの建築美は古代の様式を再編した古典主義の様式体系を土台にするから、アルベルティの建築書などの、古代神話解釈などの知的な文化に関わる。古典主義の様式はいわば言語学的な意味論と文法体系。古代の神への恐怖感や中世の神のもたらす幸福感はここでは無用となっている。

 神は地上にいる、またはある。円形、正方形、あるいはその明快な分割。いわば透明な空間秩序。円形広間、矩形広間があり、天上面は格子状に分割され、壁面は付柱が対称形に区画する。この秩序感に神が宿る。その秩序感は脳のどこが、どのように感知するのか。線は途切れてはならない。柱は上下を区切られるが、その垂直軸線は無限に延長されていると認知される。円形、正方形の空間の中心に立てば、世界あるいは宇宙空間はあらゆる方向に無限に広がるように感知される。線を認識する、中心を認識するのだが、視覚野の問題というよりは想像力、構築力。プラトンイデア的なものが脳内に仮想的に構築される。トップダウン型の脳内制御。そこには長期記憶が関与するだろう。ボトムアップ型での脳内の経験群が整理されて、あるイデア的なもの、単純で明快、そして純粋化されたものが無意識の中に生まれている。それを意識の投影させたものが、円形と正方形、その組み合わせ。

 天才はその純粋化と投影力を持つ人のこと。ダビンチの絵画に見る静謐な秩序。円形ドームを頂く、正方形プランの集中式教会堂。マンテーニャの自邸は正方形プランの中心が円形の中庭で刳り抜かれている。ウルビーノで描かれた理想都市図には中心に円堂、正方形と思われる広場。市街地の各建築物は比例分割される。この秩序感が、構想する脳のある部位を刺激し、その動作がドーパミン作動系かその他のどれかの報酬系を活性化させるのか。神は地上にあるとして。

 近世は、天才芸術家がつくる幾何学秩序を理想とする時代。家、都市の形にそれが表れる。幸福な空間が実現する。古代の運命を定める神も、中世の愛をもたらす神も、ここにはいない。天才という人の手で作られる、地上のパラダイス。人に神が宿る・・・と、錯覚する。しかし時代は進化した。

 イタリアで開拓されたそのような世界観は、ヨーロッパ全域に拡散しつつ、かなり変質する。ベルサイユ宮殿はその行きついた先であり、地上のパラダイスのひとつ。見事な中心を持つ、幾何学形態を組み合わせた対称形。無限に続くかと錯覚される幾何学庭園と眺望軸線。ただ、そこには天才ならぬ、自らを国家と一体化させた、全能を過信するひとりの王がいる。黙示録世界のカタストロフィーへと、帰らぬ道。そうでなくてもヨーロッパ全体では宮殿の純粋な幾何学形はくずれ、細々とした装飾に快感が引きずられる。

 日本の「城」と比較せよ。信長の安土城、その先端の八角形とされる櫓。秀吉は大坂城伏見城と、天守閣という名の塔屋建築。完全な幾何学ではないが、塔はだいたい平面図で見れば集中式建築に近い。初期ベルサイユ宮殿は四角い濠で囲まれた変形中庭型のプランを持つが、聚楽第も二条城も基本形は同じ。広島城も。日本にも近世の空間精神は共通したのだ。ポルトガル人がもたらした?もはや「城」ではなく、「宮殿」なのだ。近世日本人の脳も同様だったのか否か。

 安土桃山時代の茶室建築は、何をもって快感を生んだのか。利休の脳の使い方を分析してみたい。ゼキやカンデルの還元主義も使えるかもしれない。

 

脳科学的な宗教建築史に向けて

 建築史を脳科学から解き明かせないか。少し、書籍を物色してきたが、なかなかこれというものに突き当たらない。予備的な考察をしておこう。

 古代に神殿が発生したのは、どのようにしてか。

 神殿には神像が収容される。屋根がかかった神殿では内部が暗く、またあまり広くないので、わずかの神官が入って儀式を行うだけだったろう。神の住まいと位置づけられたとは言え、逆に言えば、神を壁の中に閉じ込めたようなものでもある。モニュメントのように神像が立つ場合もあるので、わざわざ家の形にする必要もなかったのではないか。あえて家に閉じ込めた動機とはなんだったのか。

 そもそも神は脳が幻をこしらえたもの。いろんな説をもとにすると、人は扁桃体で覚えた不安を緩和するために、神を妄想し、側坐核が報酬を与えて快感をもたらすというころになりそうだ。古代社会では外なる神が人々を守ってくれて欲しかったのか。アポロ、ゼウス、天照大神、etc. 神の世界と人の世界は二重化されていた。見えてはならない神であれば、家の中にいてもよい。日本の神社には神像はなく、鏡があるだけで、また御神体とやらも暴いてみると石ころだったりするから、閉じた家の方が適切だったのか。石ころを崇めさせるという究極のマインド・コントロール

 いずれにせよ、神殿は窓のない倉庫の形式が転用されている。神殿が閉ざしてあれば神が不必要に暴れることはない。神は優しくもあれば、怒り狂うこともある。むしろ畏怖すべき存在であり、扁桃体がいつもピリピリしていただろう。人間の力を超えているから、閉じ込めてあるほうが安心。神にも色々あるので一言では言えないが。

 キリスト教の教会堂は集会施設である。そもそも迫害されていた頃に地下空間に始まる。コンスタンティヌス帝が国教化した際に、市場バシリカの形式を転用した大規模な教会堂となり、中世にかけて発展する。いわば多数が集まれる大ホールが原型であり、教会堂の内側は神の国となる。天上の神は地上の教会堂にいる信者たちを俗世間から守る。もはや神は暴力的ではない。キリスト教の原理は隣人愛、つまり共同生活の平和を確保することとすれば、大ホールは共同体の親和性を確認する場所。宗教観が根本的に異なる。普段から神に祈り、そうすれば神が優しく守ってくれるという精神構造は、神殿のもとの古代社会とは異なる。神の愛は脳のどこで感じていたのか。側坐核は報酬、快感、嗜癖、恐怖に関わるというから、これもまた腹側被蓋野からのドーパミン放出に関わるという側坐核が関与するのか。嗜癖、つまり快感を覚えることがやめられないということは、神を捨てられない保守的な人たちの性向を指すのか。

 ルネサンスには人間は自立し、神は人体の奥に宿ることとなる。教会堂は存続するが、幾何学的な芸術作品。ミケランジェロがデザインした、明るく力強い、そして美しい建築が人々に幸福感を与える。神がかったミケランジェロの作品に、神を感じ取るのか。カルヴァン宗教改革は人々の職業(Beruf)さえ神の呼び声に応じることとなり、人間の世俗的活動までが肯定される。教会堂の円形のドームは神のつくった宇宙の代言者。アントロポモルフィズムの新人同形説が教会堂のプランに適用されもする。美を感じるのは脳のどこか。視覚野、聴覚野などが認知したものが、美として幸福感をもたらすのだろう。その先はやはり扁桃体側坐核の連携か。ここでは宗教は芸術に取って代わられたのか。

ウィーン脳vsベルリン脳

 1871年プロイセンがフランスとの戦争に勝利すると、ドイツ帝国が創立され、すぐに泡沫会社期と言われるバブルが起こる。バブルは弾け、経済の停滞を招く。しかし、統一される前のドイツの諸国からあらゆるエネルギーが新帝都ベルリンに集中し始める。若い帝都は成長を続け、世紀転換期を迎える。やがてエネルギーを溜めきった帝国は諸外国に制約されて爆発し、第一次世界大戦を引き起こす。

 その間に南ドイツのバイエルン国は夢見る国王ルートヴィヒ二世のつまづきを経て、吸い取られていく。北西ドイツのケルンにあった未完の大聖堂はドイツ民族の象徴と位置づけられ、ドイツ帝国の象徴へとすり替えられる。北東ドイツを支配するに過ぎなかったプロイセンの首都ベルリンはドイツ帝国全土の核となって求心力を高め、一極集中の空間構造が生まれる。

 落日のオーストリア帝国は華やかな宮廷文化の名残にルサンチマンを高めつつ、屈折した精神構造を見せた。世紀末ウィーンを彩る文化、芸術、学問の隆盛が、この時代の時代背景を持つウィーン脳の反映だったとすれば、若い帝都ベルリンは対象的なベルリン脳を呈したと言えるかもしれない。

 ドイツ表現主義ゴシック様式の独特の解釈を見せた。世紀末ウィーンの芸術にはゴシックはほとんど見えない。むしろバロック建築の伝統が息づくウィーンは、世紀末もバロック、そして華麗なネオ・バロックをベースに展開したと言えるのかもしれない。ネオ・ルネサンスの建築家ゼンパーがウィーンに建てたホフブルクの宮殿、劇場、博物館ではネオ・バロックに移っていた。

 ゴシックは民族の様式と見なされ、ネオ・ゴシックは大衆をも巻き込む文化運動となった。宮廷文化と民族文化の対比が、ウィーンとベルリンの違いをつくる。若い帝国は不安定であり、成長とともに直面する問題を乗り越えるのに苦労する。華やかで高級な知恵を大脳皮質の記憶にちりばめるウィーン脳は過去の栄光にこだわるが、素朴でシンプルな知識を基盤に新しい知恵を獲得し続けるベルリン脳は可能性と希望に満ちていた。伸び上がるゴシックの尖塔こそベルリンの精神を代言していた。

 ブルーノ・タウト第一次大戦後に著した『宇宙建築士』と題する絵本は象徴的である。そこではゴシック大聖堂が成長する樹木のように伸び上がり続ける。やがて限界に達するとそれは大崩壊を遂げる。拡散した石は降った雨の後に、まるで新芽を葺くようにあちこちで小さな家を建ち上げる。そこに全くあたらしい世界、宇宙が生まれる。これがベルリン脳の姿そのものだったのかもしれない。

 ウィーンでは芸術は視覚野の各要素に還元された。タウトは色彩建築を唱えてそれを引き継ぎ、ガラス建築で光をテーマにする。背景にはゴシックの尖塔モデルが、また中世社会のような田園都市の都市イメージがあった。尖塔形はグロピウスにもミースにも現れる。他方でメンデルゾーンはアインシュタイン塔で視覚野の線的輪郭要素を活性化させる。ウィーンに生まれた還元主義はベルリンに継承され、内向性から外向性に転じ、表現主義の精神構造をもたらす。

 鬱のウィーンは躁のベルリンに逆転した。このベルリン脳の姿を、これから解きほぐしていこうか。一過性の熱病と見られることが多いドイツ表現主義の、未解明の脳構造は再評価されねばならない。21世紀を切り開いていくのに一助となるはずである。

 

 

カンデルの世紀転換期ウィーン論

 エリック・カンデルはノーベル医学・生理学賞受賞者。『カンデル神経科学』を覗いてみたが、神経学百科全書のような体裁で、専門的な論文集のようでもある。堅物の学者さんかと思いきや、『芸術・無意識・脳』は一転して美術史の書。脳科学者が分析する美術は新鮮だ。目配りはよく、ダマシオも、ゼキも、ラマチャンドランも適宜、引用される。総集編であろうとするのか。ただ、この種の本は同じネタが平気で使われるのが恒のようで、同じ画像が登場するのには少し落胆する。

 とは言え、世紀末から世紀初頭のウィーンでの精神構造がよくわかって面白い。脳科学者の視点は独特の洞察を提示してくれる。フロイトもリーグルも、芸術家と一体になって捌かれる。焦点はクリムト、シーレ、ココシュカ。写真機の登場に対抗した芸術家たちは抽象へと歩を進める。その抽象は脳の視覚的認知の構造にもとづくものだった。ゼキの論にもあったような、線、色への抽象。これにフロイト的な性的な本能が絡むところが注目の的となる。

 性衝動へと還元される、フロイトに共通する部分は、やや過剰でもあり、閉口する。視野狭窄にも感じる。ウィーン世紀末は確かにエロティックな世界が展開されるが、こればかりに還元すると、フロイトの偏向の二の舞いになりそうだ。ヴォリンガーやドヴォルシャックのような様式論へと展開するには、この偏向は消しておきたい。なぜこの時期のウィーンに独特の精神性が広がったのか。オーストリア宮廷文化の爛熟と落日が関係しているのか。退廃的であるところを逆手に取るような、独特の新しい動きだった。パラダイム転換はこのような出口なき爛熟の坩堝に発生するという教訓。

 本題に戻って、クリムトの平板性。遠近法など朝飯前のクリムトが、あえて遠近法を捨て、三次元から二次元へと強引に移行する。アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像が見事にその構造を見せる。アカデミー壁画で見せた三次元的な具象表現ほどではないが、顔は具象的で、特に目はリアル。直角に曲がる右手のあたりでパターン化が始まる。衣装は二次元になり、紋様が散りばめられつつ、あいまいに広がる。背景、というようりは側景は完全に二次元の工芸デザイン風となる。眼球の網膜は、中心に神経細胞が集中し、周辺に広がるにしたがってぼける。そのままがこの絵の構造となる。衣装や背景画写実的であれば、目はすべてを見なくてはならなくなって、困る。印象は一瞬のものであり、目、顔、手以外は、印象を脳に伝えるだけでよい。それなら金色を主とする図案で網膜全体を喜ばせればよい。絵画の方法が、科学に従うように転換された。様式上では、アカデミー絵画からセセッション的デザイン性への転換。

 シーレは謎深い。面よりも輪郭が目立つ。視覚野のV1、V2あたりで認識される線、輪郭がより強い。輪郭線が動きも孕んでいるので、V5も関わるのか。身体が孕むエネルギーのようなものが画面に引き出されてくる。世紀末的な退廃的深層心理の表現に座標が移行する。エロスからタナトスへ。日常性を脅かす危険さも感じられ、扁桃体も刺激するのは、表現主義への移行を示すのか。輪郭表現は日本のアニメにも通じるところがあってわかりやすい。

 ココシュカはもう一歩、表現主義へと踏み出している。輪郭はデフォルメされ、色彩は過剰となり、輝度のコントラストが刺激を生み出す。対象の写実性を離れ、印象派の受動的な内向性も超え、増幅された音波のようなものが脳の視覚構造を震わせる。動揺するのは扁桃体だけか、それとも全脳へ波及するのか。前頭野が麻痺し、抑圧されるるような感じもある。やがてウィーン精神派のココシュカは、ドイツ表現主義のココシュカへと移行するが、クリムトに始まるウィーンでの文脈で説かれるとココシュカの立ち位置がわかりやすい。

 カンデルが解き明かすウィーンは特殊な世界。宮廷文化が崩壊し、生の動物的人間が露出してくる時代。それはヨーロッパ規模ではどのような意味を持ったのか。対抗するように成長著しいベルリンで、すぐに表現主義が花開く。退廃ではなく希望に溢れて。大都市を避けてミュンヘン郊外で芽を吹く表現主義は、ベルリンの吸引力に引き込まれる。質実剛健プロイセン精神で堅かったベルリン文化は一気に転換する。社会経済現象だったベルリンが文化現象をまとい始める。ベルリンはウィーンの裏返しだったのか。カンデルの脳科学的分析は新しいベルリン論へとつなげられるか否か。

セミール・ゼキの脳科学的芸術論から

 『脳は美をいかに感じるか』に見るモダニズム・アートについてのセミール・ゼキの説は刺激的である。モダニズムの抽象芸術化の傾向の中で、まるで芸術家は科学者になったかのように見えるという。それもあいまいな感想ではなくて、後頭葉の視覚野で起こっているを実験的に明かしながら、個別の芸術作品を参照させてくれる。

 視覚野はV1〜5に別れるが、それらはおおよそ分担し合い、形、色、運動などに反応するという。形についても、垂直線、水平線、斜線はそれぞれ専門のニューロンが配されている。色は赤、青、緑が分担される。V1とV4は受容される色と、光源からの色を差し引いた対象独自の色とは仕分ける、等々、分析は具体的で詳細だ。

 キュービズムの直線と幾何学形態はあるニューロンが担当する。未来派キネティック・アートの運動性は運動を担当するニューロンに回帰する。モンドリアンの水平線、垂直線への拘りも特定のニューロンに還元される。マーレヴィッチからタンゲリィのメタマーレヴィッチへという変遷は2、3次元から4次元への展開を見せるが、これもまた担当するニューロンの移行として説明される。

 19世紀後期の総合芸術は、いわば全ニューロンを動員する方向性を示したことになるが、モダニズムはその統一感を分解し、個別ニューロンに自己主張させる方向へと進んだことになる。なぜそういうことになったのか、動機は語られないが、現象の理解は納得できる。アカデミズムがもたらした高度な複合体としての芸術作品ではなく、単体へと切り分けられるのに、個別ニューロンが表舞台で活躍することとなる。嫌われた高度は複合体は修正ではなく全否定される。

 グロピウスがバウハウスを設立する際に、抽象芸術家を集めたのは、単なる新しさのポーズではなかったのだろう。既成の総合芸術を解体して脳をリフレッシュし、脳科学的な真理に立ち返って、芸術を再創造する。そのためには脳細胞のほんとうの汚れない働きに信を置くべきと見なしたのだったか。総合芸術としての建築を再構成するのに、抽象芸術への回帰が必要だったのか。

 1919年に始まり、1923年ごろまでは、既成の総合芸術感をシャッフルし、曇りのない脳細胞を再発見する過程だった。デッサウ・バウハウスの建築は新しい、曇のない脳の働きが産み落とした、いわば真の建築像だったことになる。

 透明な直方体のガラス箱、垂直の柱と水平の梁による骨組と水平なスラブは、働き方を変えた脳の、新しい働き方を提示するものとなった。白い壁面、透明な壁、ガラスを輪郭付ける黒い鉄枠。色彩は否定したモノクロームの世界。色彩ニューロンが休むばかりでなく、前頭葉の余計は思考も排除された。色彩や動きといった要素は建築にはないが、その中で活動する芸術家たちが絵画、動的彫刻、演劇などで展開させる人間のトータルな感性に仕上げればよい。建築家は謙虚だが、むしろ芸術家を演出している。

 バウハウスは文化革命だったのだ。人間がよみがえる。たしかにそのことは以前から指摘されてきたものだが、それが脳の各部の働き、さらには各ニューロンの働きに直結させる改革だったことは、今になって初めて確認された。パラダイム転換に遭遇した各パラダイムはある程度まとまったモジュールとして取られられてきたが、その奥底にニューロンのレベルでの刷新があったことは、歴史の書き直しを迫る。