セミール・ゼキの脳科学的芸術論から

 『脳は美をいかに感じるか』に見るモダニズム・アートについてのセミール・ゼキの説は刺激的である。モダニズムの抽象芸術化の傾向の中で、まるで芸術家は科学者になったかのように見えるという。それもあいまいな感想ではなくて、後頭葉の視覚野で起こっているを実験的に明かしながら、個別の芸術作品を参照させてくれる。

 視覚野はV1〜5に別れるが、それらはおおよそ分担し合い、形、色、運動などに反応するという。形についても、垂直線、水平線、斜線はそれぞれ専門のニューロンが配されている。色は赤、青、緑が分担される。V1とV4は受容される色と、光源からの色を差し引いた対象独自の色とは仕分ける、等々、分析は具体的で詳細だ。

 キュービズムの直線と幾何学形態はあるニューロンが担当する。未来派キネティック・アートの運動性は運動を担当するニューロンに回帰する。モンドリアンの水平線、垂直線への拘りも特定のニューロンに還元される。マーレヴィッチからタンゲリィのメタマーレヴィッチへという変遷は2、3次元から4次元への展開を見せるが、これもまた担当するニューロンの移行として説明される。

 19世紀後期の総合芸術は、いわば全ニューロンを動員する方向性を示したことになるが、モダニズムはその統一感を分解し、個別ニューロンに自己主張させる方向へと進んだことになる。なぜそういうことになったのか、動機は語られないが、現象の理解は納得できる。アカデミズムがもたらした高度な複合体としての芸術作品ではなく、単体へと切り分けられるのに、個別ニューロンが表舞台で活躍することとなる。嫌われた高度は複合体は修正ではなく全否定される。

 グロピウスがバウハウスを設立する際に、抽象芸術家を集めたのは、単なる新しさのポーズではなかったのだろう。既成の総合芸術を解体して脳をリフレッシュし、脳科学的な真理に立ち返って、芸術を再創造する。そのためには脳細胞のほんとうの汚れない働きに信を置くべきと見なしたのだったか。総合芸術としての建築を再構成するのに、抽象芸術への回帰が必要だったのか。

 1919年に始まり、1923年ごろまでは、既成の総合芸術感をシャッフルし、曇りのない脳細胞を再発見する過程だった。デッサウ・バウハウスの建築は新しい、曇のない脳の働きが産み落とした、いわば真の建築像だったことになる。

 透明な直方体のガラス箱、垂直の柱と水平の梁による骨組と水平なスラブは、働き方を変えた脳の、新しい働き方を提示するものとなった。白い壁面、透明な壁、ガラスを輪郭付ける黒い鉄枠。色彩は否定したモノクロームの世界。色彩ニューロンが休むばかりでなく、前頭葉の余計は思考も排除された。色彩や動きといった要素は建築にはないが、その中で活動する芸術家たちが絵画、動的彫刻、演劇などで展開させる人間のトータルな感性に仕上げればよい。建築家は謙虚だが、むしろ芸術家を演出している。

 バウハウスは文化革命だったのだ。人間がよみがえる。たしかにそのことは以前から指摘されてきたものだが、それが脳の各部の働き、さらには各ニューロンの働きに直結させる改革だったことは、今になって初めて確認された。パラダイム転換に遭遇した各パラダイムはある程度まとまったモジュールとして取られられてきたが、その奥底にニューロンのレベルでの刷新があったことは、歴史の書き直しを迫る。